2005/10/18

ベーラ・アフマドゥーリナ「***」(1959)

ベーラ・アフマドゥーリナ

* * *

私の通り道には何年目だろうか
今もなお聞こえる、友たちの立ち去っていく足音が。
友たちのいつまでもぐずぐずして去ろうとしないその姿が
窓の外に見えるあの闇にはお誂えなのだ。

ほったらかしたままの友たちのこと、
彼らの家には音楽も歌もなく、
ただ、相も変わらず、ドガの娘たちが
青い羽を整え直している。

どうしたものか、どうしたものか、でも不安に目を覚ますことはない、
無防備なあなたたちがこんな夜中に。
裏切りを熱く秘めた思いが、
我が友たちよ、あなた方の目を曇らせているのだから。

おお、孤独よ、何とお前の性格のきついこと!
鉄製のコンパスを燦めかせ、
何と冷たくお前は円を描くことか、
当てにならぬ安請け合いなどには耳も貸さぬのだから。

さあ、私を呼び付けて勲章を授けるがいい!
お前の秘蔵っ子、お前によい子と言われて
慰めにしている私、お前の胸に身を寄せて
お前の青い冷たさで身を洗い清めるから。

忍び足で立たせておくれ、お前の森で、
そしたら、その緩慢な身振りの果てに
葉っぱを一枚見つけ、顔まで近付け、
そして孤児であることが至福なのだと感じて見せるから。

私にお前の蔵書の静寂を、
お前の演奏の厳粛な旋律をおくれ、
そうしたら、知恵のある私には忘れることが出来るから、
死んだ人たちのこと、あるいは、今もなお生きている人たちのことを

そうしたら、私は知恵と悲しみのことが分かるはず、
自分たちの秘められた意味を色んな物たちが私に打ち明けてくれるから。
自然は、私の両肩に寄り掛かり、
その子供じみた秘密を明かしてくれるから。

そしてその時、涙から、暗闇から
かつての卑しい蒙昧さから、
私の友たちの麗しき輪郭が
現れて、また溶けていく、再び。

1959

2005/10/16

Big Guy

to Se?orita Tanabe

救済がないと分かった後もなお記憶をもつ者は、九九を覚え終わった小学生のようなもの。はたまた、景山式計算ドリルを朝から晩まで子供と一緒に頑張る減点パパかも。

「熱狂」を引きずるというのはいかにも崇高さに欠けるといいますか、一種の才能ですかねぇ。あるいは、フレグマの崇高を選ぶ人がやはり多いのでしょうか。この「崇高さ」とやらを、ド・マン片手に考えているときふと気づいたことは、聖職者のタイプ。

常々、正教会教徒の熱狂性皆無が不思議で仕方がなかった。というのも、プロテスタント(テレビ宣教師を想像してね)のプロパガンディストと比較すると、どうもその毛色の違いに違和感を感じていた。というより、あの宣教師が僕のステレオタイプで、アメリカかどこかのゴスペルアワーなんかだと、みんな泣いちゃってる。

ただ、一つ興味深い話として、前ポンティフィスがその座に着く前日に、聖堂の十字架の前で身を投げ出して一晩中祈り続けたというの。献身ということだろうけど、でもやはりこれは意外だった。こっちのパパは百点パパかもしれない。

2005/10/15

『もみあげ団』(レンフィルム、1990年)

157cm。

これはロシアで最も有名であるはずの詩人(A.S.P.)の身長である。人は背の高さではない、ということの証であろうか。ともかく、今日はこの157センチメートルのA.S.P.像の周りを徘徊しようと思う。

「ペレストロイカ」の副産物と言い捨ててしまうには惜しい作品であるが、私はユーリィ・マーミン監督がその後に撮った作品を一つも見ていない(2005年10 月17日訂正:この作品の前後のいずれかは不明だが、『パリへの窓』というファンタジーを撮っているのを思い出した)。以前日本で開かれたレンフィルム・ フェスのプログラムに何があったかを知らぬ私にはただ想像するしかないが、仮にこの『もみあげ団』(原題は『Бакенбарды』)が上映されていたならば、全面的に盛り込まれたソヴィエト・グロテスクが日本で素直に受け入れられたとは考えにくい。グロテスクとは言ったが、この作品に関しては誉め言葉のつもりで、ただの娯楽映画ではないという意味だ。

ある日、ペテルブルク郊外の町に黒マントの紳士二人が岸辺に降り立つ。“もみあげ”をたくわえ、手にはステッキを握る彼らの目的を知る者はまだ誰もいない。 そこは解放された退廃的文化が蔓延する町であり、不明であるのは紳士たちの目的ばかりではない、また住民自らもその方向を喪失していた。ほどなくして、紳士たちの目指しているものが明らかになる。それは、ソヴィエト的価値観からの解放によっても疲弊するしかなかった文化を「プーシキン」によってすげ替えて復興しようというものであった。だが、そこに現れた「プーシキン」は実に詩人である以前にアジテーターであり、A.S.P.親衛隊を結成するばかりの文化主義的ファッショに他な らなかった。


無論、これは指導者=僭称者というロシアの伝統的テーマであると同時に、価値体系が常に崩壊を繰り返すフラットな場所として自らを表象し続ける元アンダーグラウンド系ロシア人思想家たちを背景から脅かしている強迫観念じみた考えでもある。そのため、このフラットな面を闊達に動きまわるために彼らが必要とするのは、皮肉にも、僭称の前提となる「仮面」に他ならず、これは映画『もみあげ団』において「プーシキン」や「レールモントフ」、はたまた「マヤコフスキー」という詩人の仮面として描かれる。そして、特徴的なのはこれだけではない。彼らの手に握られているステッキは道化のシンボルであり、これは古典古代にまで遡る神話的アイテムですらある(要するに、ファロスのことだ)。

以前、ここで引用した詩の一節(チュッチェフ「Silentum!」)に「考えは口に出したら偽りだ」という言葉があるが、これこそは詩人がその仮面を脱いだトリックスターとしての姿を露わにした瞬間と言えなくもないだろう。言葉を信じることの出来ない詩人、否むしろそれはやはり、アジテーターなのだろうか。

ちなみに「もみあげ団」は最後的に当局によって拘束され、そのアイデンティティであったもみあげを刈り取られ、解散させられる。だが、黄色いセーターにスキンヘッドという出で立ちで再びマヤコフスキーに同化し、そしてまた同じ町を行進するところで映画は終わる。

2005/10/14

『キン・ザ・ザ』という「記憶」


『キン・ザ・ザ』
最近ではDVDにまでなって、ずいぶん世の中も変わったものだと思う。個人的にはこの作品の想像力を超えたSFはまだ見ていない。

いわゆる「スタートレック」風のエンドレスものを除くと、ハリウッドのSFは二つに大別出来るのではないかと常々思っている。これは非常に単純である。つま り、人類の歴史がワン・サイクル閉じるという意味での「世の終わり」を契機にして考えると、そこには「終末前SF」と「終末後SF」があるのではないかと いうものだ。前者から見てみよう。

一番の例が『未知との遭遇』(『E.T.』でもいいが)である。異星人、これはサイクルの問題と関係な いかに見えるが、無関係どころではない。これは、オカルト性を排除した終末論の現代的焼き直しであって、終末の描き方が戦争重視(異星人襲来による最終戦争)へと流れずに、宥和へと重心を移動させたからそう見えるに過ぎない。未見だが、『宇宙戦争』は地球と地球外の二つの世界の間の「戦争」に他ならないし、そのプラットフォームには太古から世界を支配する原理としての未知なる力が前提となっている。それとの対決は歴史のサイクルが閉じる瞬間を描くということであるし、SF的な関心はもっぱらそこに向けられるだろう。そして、それは今まで知らずにいた自分たちを知悉する人類こそがテーマでもある。ということは、これは世界の記憶、あるいはアイデンティティを最終的に確認させることをめぐる物語でもあるということだ。さらに言えば、映画そのものが記憶確認、 より厳密には人類が何であったかということを知らせる媒体となるという意味できわめて教育的ですらある。ハリウッド教育映画。

これに対し、「終末後SF」には当然、記憶追認というものはない。アイデンティティはすでに確認され、サイクルは新たなものとなっているからだ。「自分のことなど とっくに分かり切っている自分」というのが今度は主人公になる。誰に教えられる必要もなく、記憶は自分のもので、捏造や簒奪などあり得ないし、自分からも求めはしない。つまり、一度閉じられた過去はもはや後戻りしてまで取り戻す必要のないものとなって主人公に預けられている。これはいかにも「過去を所有する」という意味に於いて主人(公)らしい。しかし、50年代のディックの原作を見れば分かるように、この確実なアイデンティティも再び解れ始める。ディックものが再び記憶=アイデンティティの危機をテーマにせざるを得ないのは、サイクルそのものが一度閉じてしまったからこそ生じる危機がやはり存在するからである。ここではオカルト性は希薄になる。「一回切り」であることを主旨とした終末論的物語伝統にはなかった、いわば、金輪際完全に断ち切ることの出来ない常態的危機がここからは始まることになる。

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ここからが今日の本題。

製作は85年だっただろうか、冒頭に紹介した『キン・ザ・ザ』は最初にゲオールギィ・ダネーリア監督が宇宙版ロビンソン・クルーソーを思いつき、脚本家のレゾ・ガブリアッゼと共同で書き上げたものだが、執筆だけに2年半を費やしたらしい。奇妙な映画だっただけにダネーリアというビッグネームがなかったならばまずは実現しなかったとどこかで監督本人が語っていた。

ソ 連・ロシアSFを全て見たわけではないので、次に言うことに説得力がないといわれて も仕方がない。ただ、『キン・ザ・ザ』だけをとれば、そこにある主題としての記憶への視点がずいぶん異なっていることに気づくのである。クルーソーが題材 であることからも分かるように、そこにいる主人公たち(マカロニを買いに出たエンジニアとバイオリンを届けに行こうとしていたグルジア人学生=地球人)自体が異星人であり、E.T.に他ならないのだ。しかも、彼らの持っているものといえば、ぶどう酢とバイオリン(本人たちは弾けない)とマッチ箱(このマッチが映画ではくせ者なのだが)だけで、これで戦争など起こしようがない。彼らの過去は自分から断ち切ろうとする以前に、呆然自失のあまり、振り返るまでもなく遠い記憶になってしまい、しかも、砂漠の惑星ではもはや自分が誰かということを証したてる意味すらない。つまり、歴史との決着やアイデンティティ危機の解決はどこにも顔を出さないのである。そこにはひたすら郷愁があり、しかもそれを上回るばかりの絶望しかない(だが、一見それほどの 悲壮感は漂っていないのが不気味でもある)。言い方を換えよう。記憶は無論問題ではあるのだが、それは「記憶に関する」映画という意味ではなく、この「映画そのものが記憶」であると言ったほうがよいかも知れない。その象徴として、記憶を消された状態で主人公の二人は無事地球に帰還し、地球の外へ放り出される直前の場所に戻るのだが、そこに通りかかった清掃車の点滅ランプを見た瞬間、彼らは宇宙で同じようなランプを頭に付けた上流階級異星人に向かってしていた卑屈なジェスチャーで挨拶をし、二人はお互いのことを思い出す。そしてエンディング。これは記憶の回復を意味するというよりも、映画そのものが記憶であったことを示しているし、それは映画が記憶になった瞬間だと言えるだろう。

ハリウッドの「記憶映画」は様々にモードを変えて今もなお反復されているようだが、最近では少しずつディック的テーマ群からの逸脱を始めているようにも思える。これについてはまた別の機会に書こうと思う。これはディック本人のテーマであるのでハリウッド映画に敷衍することは許されないかも知れないが、「歴史・時間のサイクルが一度閉じた後」という意味でいうならば、構わないだろう。アイデンティティが常に変化するものと考えるか、それとも恒常的であるとするかによって、このテーマへのアプローチはずいぶん異なるだろうが。

最後に。
ここ最近の日本映画の「記憶もの」はこれらいずれにも属さないと見てよいと思う。いずれも未見だが、テーマだ けを取れば、そこにあるのは「断ち切るべきであっても断ち切れない過去」という異質な記憶観があるのだろう。これには、正直言うと、ほとんど興味を感じな い。言葉は悪いが、「清算したい過去」があるので過去に戻るが、現実世界にはその清算しなければいけない相手はすでに存在しない...そして私はその人の ために生きていく等々...というテーマは少年少女趣味としか思えないし、それって、まるで過去を自分のものに出来るかのような前提でしか語ろうとしてい ないように見えるから...。記憶は頻繁に嘘をつくのだし。「あの1億、受け取ったかもしんない...」という某日本国元首相シカリ。
Кю!

ビー(地球人に向かって):ズボンを色で識別しない世の中なんぞに、目的なんかねえだろが




     キュー!



                                                                                
クー。                                                                 

                                       

2005/10/12

ソクーロフ『太陽』ーその2


色々と賛否があるみたい、この映画には。

好き嫌いを別にしても、米国の或る批評家がこの映画をSF作品にたとえているのを記事として読んだとき、これは冗談とばかりは言えないものと感じた。つまりこうだ、『Телец』『Молох』『Солнце』を「独裁者」三部作と形容している限りでは、このシリーズはあくまでも政治的テーマへのアプローチという面が前景に押し出される。しかし、仮に主人公たる三者を「独裁者」という共通項ではなく、死に瀕する手前での「救済者」というテーマで見る場合、そこにあった政治的前景は同時に黙示録な全景へと変貌するのではないかということ、かの米批評家の「サイエンス・フィクション」という形容に含まれていた揶揄を正面から受け止めて腹を立てたりするのではなく、前世紀初頭においてE.T.の如き奇天烈な「救済者」が出現したとき、それはいずれも「独裁者」であって、またそれ以外ではなかったということに思念を向けることが、三部作を見るに当たってさしあたり必要なことかもしれない。

ソクーロフの描く現人神は確かに、「錦鯉のごとく口をぱくぱくさせ」もすれば、「E.T.」のようでもあるだろう。そこに飛びつく批評もあって結構だ。ただ、映像手法の点からすると、至ってノーマルな描写ばかりであるし、他の作品と比べると実験性は極力抑えられていることはすぐに気づく。被写体に歪みは加えられず、時間構成上も直線的で、唯一、ヒロヒトが見る夢の中の映像のみが戦時の現実を反映した非現実性を担わされている。辿々しい表現になってしまうが、これは逆に、戦時という現実の非現実性と非現実的な夢という現実が「ヒロヒト=現人神」という半絶対的個人において凝縮されているのであり、この収斂点にこそ、戦争という非現実を、つまり戦時の異常性を解消する鍵があったということだ。だから、法的な戦争責任がテーマになっているということはもやは出来ないし、それは監督にもさほど興味があったこととも思えない。

アンチノミズムという態度があるが、これは危急の世界救済という黙示録的状況においても問題になる。つまり、この特殊状況においては、一般習慣化した規範、あるいは、教義的な内容に抵触する道徳的規範から敢えて離脱することによって、その危機的状況を解決しようとする態度である。たとえば、十七世紀のユダヤ人会衆の間で広まったサバタイ運動においてもまた同じく見られたもの。この態度に対しては墨守的な会衆から、メシアを僭称したとして指導者であったサバタイは破門宣告を受ける。彼は後にトルコで幽閉され、ユダヤ人としては絶対考えられないイスラームへの改宗を行う。法を侵犯してきた上に、背信にまで至った彼は、当然ながらユダヤ宗教史的には異端であり、ユダヤ宗教思想史的にも汚点である。だが、この異常さは上に挙げた神であることを止めた現人神の姿とにわかに重なる。法的責任という意味ではなく、それは超法的な態度に於いて。

またまた横道に入り込んでしまったみたい。
まあでも、われわれは危機解決が主題であった「SF」後の世界に生きていることだけは確かで、しかもその解決はまだ見ていないことも忘れてはいない。

2005/10/11

チュッチェフ "Silentum!"(1829)第二聯


黙せよ、隠れよ、秘せよ
感情も、夢も、自分のものはー
魂の淵で
昇り沈ませておけばよい
語らぬ夜の星たちのようにー
それを眺めてみたまえ、そして黙るがいい

いかに心根におのれを語らせるというのか
他人に何が分かるというのか
その者に分かるだろうか、何が私の糧かなど
考えは口に出したら偽りだ。
泉を怒らし、掻き乱せー
その泉を糧にせよ、そして黙るがいい

おのれのうちに生きることだけ身に付けよー
すれば汝の魂にあるすべては
秘められた魔術の思考の世界。
その思考は外の喧噪に掻き消され、
白昼の光に追い散らされるー
その思考の歌に耳を当てよ、そして黙れ!

Welcome to A.T.Blazhenny! + ソクーロフ『太陽』


有閑の紳士淑女のみなさん

たぶん、順番からすればここで自己紹介なのだろうけど、そんなことには興味のない向きもあるだろうから、いきなり徒然書き。

...何を書こうかと色々思いをめぐらせたところ、数ヶ月前に観たソクーロフの「太陽」がふと脳裏をよぎった。別に何の必然性もないので、ただの感想文なんだけど、自粛大国日本ではまだ映画館上映されていない映画のお話...

結構コアなファンが日本には多いソクーロフ監督。その彼の二〇世紀指導者シリーズ三部作の最後を飾ることになった「太陽」が今年の夏前にDVD化され、ロシア系ネットサイトで販売開始。熱狂的なファンには悪いんだけど、実は監督本人に数年前、広島の鷺島というところで一度会ったことがある。これは、当時彼がカンヌに出品したばかりの「モレク」の上映ビデオの字幕を頼まれたことがきっかけで、会うことになったというもの。季節はたぶん、十月か十一月だったと思う。奄美で撮影を終えた彼はそれに合わせて島にやってきたんだけど、奄美の気候が暖かかったためか、夜風がすっかり冷たくなっていた鷺島の屋外上映会(この時は「モレク」の上映じゃなかった)に半袖姿の、しかも疲れ切った体を押しての登場だった。その時、片足が少し不自由であることを初めて知ったことを記憶している。

上に、「自粛」という言葉をつい口走ったんだけれど、これはソクーロフ監督に無関係の言葉じゃない。彼の詳しい経歴は省くけど、プラトーノフ原作の短編を選んで撮った卒業作品が「反ソヴィエト的」というレッテルを貼られて、危うく反古にされそうになる(これを断固として護り通したのがタルコフスキー)。「反革命的」なんて言うと、あまりに大げさな響きがするけど、要は「わからない」ということだ。ただ、原作を読む限り、ストーリーだけを取れば少しもわかりにくいところはない。どこが分かりにくいかを説明する前に、ストーリーだけ押さえておこう。

【大祖国戦争=第二次大戦から帰還した主人公は肉親を全て失った幼なじみの女子医学生と結婚。しばらく何事もなく時は過ぎたが、その間に精神的な荒廃を深めつつあった彼は家から忽然と姿を消し、浮浪者となって流れ辿り着いた市場で自らの居場所を見つけ、犬のように扱き使われる生活に奇妙な充実を感じてしまう。やがて、そこに唯一の肉親である父親がその市場で偶然彼を見つけ、家に連れて帰る。失踪した彼を捜し回っていた妻が春の川の薄氷を踏み違えて危うく溺れ死ぬところだったことを知らされ、再び市場へ戻ることはなかった。おしまい】

ソクーロフが狙いを定めたのはストーリーではなかった。彼の関心は「荒廃」、まあ言い換えれば、ストーリーが終わるということにあった。プラトーノフの作品はいわゆる「公式」のソヴィエト文学ではなかったから、その辺に不評を買った事情もあるんだけれど、それよりも、本来華々しくあるべき大祖国戦争の英雄的勝利がこのテーマ選択(「荒廃」)の陰に隠れてしまった。それに、荒廃過程の描写ー実はこれはプラトーノフの文学的オプセッションでもあったんだけれどーの過程が映像的には後半部分になると甚だ先鋭化してしまい、ほとんどストーリー(つまり、ソヴィエト的文脈で言えば、闘争の歴史)を塗りつぶしてしまう。だから、「分かりにくい」あるいは「わからない」という表現はソヴィエト政権からすればもっぱら政治的な問題ということになるのだろうけど、監督からすればむしろ哲学的な視点から理解されるべき問題だったというべきなのかもしれない。

ところで、初めの方に触れた三部作というのはレーニン、ヒトラー、ヒロヒトという三人の指導者をそれぞれ扱ったものだけど、そのどれをとっても「終わり」をめぐる情景の形像だ。指導者でありながら、そこに描かれるレーニンはすでに自らの身体のコントロールすらもてあます病人であるし、ヒトラーは自殺する前に立てこもった山荘でのヒトラーである。そして、ソクーロフが選んだもう一人の指導者は大日本帝国が無条件降伏する直前の、人間になる意を決する現人神である。人間になろうとする神とは、つまり言い換えると、神が神であることに耐えられなくなるということ、神であることを止めるということだし、しかも帝の国にとっても、無条件降伏に屈するとは国体を護持しきれないという意味で、それは死を意味する。

まあ、あまりもありきたりなことばかり書いてしまったけど、「太陽」に関して危惧されているスキャンダラスなところを挙げるとすれば、ほんの数箇所だと思う。

1.悪夢にうなされて涙を流す「神」
2.家族写真にキスをする「神」
3.神であることに耐えられなくなる「神」

「太陽」の話をするつもりだったのに、今回はそのお膳立てだけになってしまった感じ。次はもう少し、焦点を絞って書くことにしましょ。