2006/04/30

「われ一握りの脳のなかに生き...」


ふと、くだらんダジャレを思いついてしまった。
「ノウハウ」っつー言葉。

1.「脳、匍う」:これは良い考えが浮かんだので脳が身体の穴という穴から這い出そうとする様子。
たぶん、食事中だとずいぶん煩わしいに違いない。

2.「膿、這う」:これは皮下に蓄積した大量の膿(ウミ)が癒されぬゆえに出口を求めてさまよう様子。
針で一突きが救いの神となる。南無〜。

サド、またの名を「モグラ」

最近筆が進まないのは何故か、と考えていたらいろんな邪魔者を発見。
先ずは思考の浅さだ。一度深く潜ってしまうと、しばらくしたら酸素不足になる。
だから、いつも時間が経てば深いところの記憶など忘れてしまう。これは生理的なレベルで起こるのだろう。
性欲もこの手の周期を持っているらしく、ふしだらさはそう長くは続かない。サドほどに純粋さを求めようと、やはり必ず食欲が邪魔をするのだ。だから、どちらが序での欲なのかわからなくなり、結局純粋さを求めるのは片手間になりがちだ。
そう考えてみると、ブログというのも序でなのである。したり顔の純粋さも、結局は片手間で、思考も片手間。
深みに嵌るも、浅瀬で戯れるも、要は生理レベルで決定されてしまうのか。どうもこの粘りのない思考すらも怪しげだ。
深く考えるということが、しかし、自分との距離を極限にまで切り詰めることだとすれば、それは沈黙なのかも知れない。
もしそうならば、考えていないように見える自分はその実、考えるということ自体に呑み込まれていて、考えるそのものになっているのか?否、それも怪しい。証拠がない。対自距離ゼロというのは証明できないし、そもそも誰にも分からない。だから、それを証明すること自体嘘っぽいし、それは魔が差した時にしか言葉にならない何かなのだろうか。
しかし、である。逆に、距離ゼロの世界からすれば、客観的な物言いの方が嘘っぽく見える。それは浅くなればなるほど客観的なわけで、浅い考えほど自分から懸け離れていくからだ。そして、距離が生まれていけばいくほど、証明可能になっていく。誰の手にも載せられる実体をもった事実に見えてくる。でも、それは沈黙のゼロ距離世界からすると幻想にすぎない...

人間の前に空間が開く時、それはいつも怪しいものの出現を予兆しているのだろうか。それとも、自らの怪しさをさらけ出しているのだろうか。まあ、どちらでも同じことだろうが...

写真:サドモグラの坑道

2006/04/21

「社会主義のもとでの民主化」あるいは「V、その名もヴェンデッタ」

私は基本的にはアナルキストなので、こんなことをぶちまけたところで何の得あるいは徳にもならないが、この世界は出鱈目である。
というか、出鱈目こそが世界なのだと言いたくもなる。

例えば、昨日の「社会主義のもとでの民主化」という胡錦涛の言葉を聞いて、ほくそ笑む連中はこの世に五万といるはずだ。
歴史の授業でイデオロギー闘争の終焉とかいってノートをとることほど馬鹿げたことはないのだ、と今更ながら思う。
15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ史を見ると、国家は国家ではない。というか、このような国家の歴史が今もなお確実に延命し、継続しているのだとすれば、国家など最初から特権商人の懐と刃零れした貴族の剣を隠れ蓑にした群盗の雑居楼に過ぎない。つまり、虹色で彩色艶やかなガウディ的構造物の内壁は未だに血まみれで、その外へ出ようとするものは商人でなければ皆犯罪者扱いされても仕方がないのである。時代を超えて存在するのは「エコノミック・アニマル」ならぬ「アニマル・エコノミクス」なのだ。

「社会主義」の蓑笠が未だに「民主化」という屈折した理念なのだとすれば、これを本気に信じ切れる者は永遠に幸福であれ。スターバックを褒めちぎるその前代未聞のチープさを演出しているのは社会主義の方ではなくて、他でもない資本主義である。資本主義はこれまで社会主義世界という舞台を総合演出してきた舞台監督なのだから、今更これを押しつぶすようなことはしない。それほど、商人は馬鹿ではない。植民地思想というものは生かさず殺さずの思想であって、敵を生かしておくことこそが時間節約のための成功哲学である。

「ヴェンデッタのV」は未見だが、イギリスが独裁国家になるというのはそもそも荒唐無稽である。上に見た理屈からして、あり得ない。そもそも、イギリス流経営からしてこれはむしろSFにすらならない。無論、だからSFなのではあるが...まあ、オーウェルのような作家はいるにせよ、彼などインド生まれのイギリス人であるから、そこにあるのはせいぜい屈折したブリティッシュ・アイロニーの一部に過ぎない。いずれにせよ、イギリスが舞台になった時点で、それはイギリスのことではないということだけははっきり言えるだろう。