2006/05/17

Ten-hut!!!

マクドナルドでBig Macを注文する奴を見ると、西部警察のグラサン渡哲也を思い出す。
その後、コーンパイプ。
そして、"Made in occupied Japan"
たわいない戦後、
そう、Big Macは未だに食えない。

2006/05/15

ディラン・トーマス「すべてのありとあらゆる」


I
ありとあらゆるすべての乾く世界が迫り上がる、
氷の舞台、硬直の大洋、
すべてが油から、溶岩の生け簀から、迫り出す
春の都市、その操りの華は、
灰燼の町と化する地中で、
火ぐるまに身をまかせてくるりと回る

どういうことなのか、我が肉にして剥き出しの友よ、
海の乳房、腺に彩られた東雲、
蛆の潜り込む、杭入れと休閑期の頭皮は
ありとあらゆるすべての乾く世界は、むくろの恋人よ、
原罪の如く痩せこけてしまった泡吹く髄よ、
肉体のすべてよ、乾きの世界は梃子で持ち上がる

II
懼れるでない、目覚めんとする世界を、我が死すべき者よ、
懼れるでない、味気ない合成血液を、
肋骨金属に収まった心臓もだ
懼れるでない、まぐわいの踏み板や種なしの臼碾きを、
引き金や大鎌、婚礼のナイフを、
恋人が酷い仕打ちに打ち付けてくる火打ち石もだ

我が肉たる男よ、砕かれた顎骨よ、
さあ知るがいい、肉体の獄門と悪徳を
そして、大鎌の目をした放蕩児を捕らえ置く篭のことを
知るがいい、おお我が骨よ、骨付き肉の梃子を、
懼れるでない、声を裏返らせて、
追い詰められた恋人に顔を向けさせるネジのことなど

III
ありとあらゆるすべての乾く世界はまぐわう、
亡霊女は亡霊男とともに、感染病の男は
未だ形知らぬ自らの諸人を宿す子宮とともに
すべてに形を与える胞衣と授乳、
機械仕掛けの肉がする我が肉への愛撫は、
これら世界にある死の円環をなだめつける

華で飾れ、飾れよ、諸人の融解を、
おお、絶頂の光よ、まぐわいし蕾を、
肉のまぼろしに視る焔を飾れ
海より迸る出る油を、
穴と墓石、真鍮の血を、
飾るのだ、飾れ、すべてのありとあらゆるものを

2006/05/10

今日の罪状自由詩「換骨奪胎」


今日、放送局に骨が届いた。
何の骨かは知んねーが、とにかく届いたよ、届いた。
抗議文と一緒に届けば、それは「悪質なイタズラ」。
そうでなくても、やっぱり悪戯。
でも、悪質なほど良質なのが「徒=いたずら」。

アニメの録画がしたかったのだそうな。
それを卓球が邪魔したのだそうな。
それを抗議したいのだそうな。
それには骨が必要だったのだそうな。
本人の骨ではなさそうだ。

さあ、ここで変な響きの四字熟語を思い出せ、思い出そう...
そして、警察と連帯すべきでない放送局の対応を最後に考えよ、考えよう...
...今後、スポーツ中継延長の時には日本国瘋癲アニメ卿何某に
その旨楔形文字にて打電せし骨を送り進ぜようぞ

「ホンシツ ハ カンコツタツタイ ノ ヒ ニテ アシカラス」

2006/05/07

イヴァン・ブーニン「軽い吐息」


墓地には、撒かれてから日の浅い土の上に新参の樫の十字架ががっしりと、重々しく、風化など知らぬ姿で立つ。

四月、どんよりとした日々。だだっ広い郡立墓地の墓碑は遠く離れたところからでも葉をつけぬ木々の間を通して見え、さめざめとした風が十字架の台座に置かれた陶製の花輪を唸らせている。

その十字架はというと、ぷっくりと隆起した陶製の肖像板を嵌め込み、その肖像板には嬉々とした、ぞっとするほど生き生きした眼の、女学生の写真が入っていた。

オーリャ・メシェールスカヤである。

少女時代の彼女は、女学生が着る褐色のコートの群れの中にあっては、これといって目立つ方ではなかった。彼女について語ることがあるとすれば、良家の出で、裕福、それに幸せな女の子たちのうちの一人だということ、優秀だが悪戯好きで、担任の女教師の言うことにはてんでお構いなしだったということぐらいだろうか。その後、彼女は蕾を開き始めるが、数日どころか、数時間単位の成長を見せる。ほっそりとしたウェストに、すらっとした脚の彼女は十四歳にしてすでに、胸そしてあらゆるフォルムが見事に描き出され、その魅力たるやこれまで一度として人間の言葉で言い表されたことのないほどのものであった。十五になる頃の彼女はすでに美少女という評判を得る。一部の友人たちはどれほど念入りに髪を結い、清潔で、控えめな身のこなしに気を配ったことだろうか! なのに、彼女ときたら怖いもの知らずなのだ、手についたインクの汚れも、恥じらいで真っ赤になった顔も、振り乱した髪も、競走で転倒した時に捲り上がる膝のことなどもお構いなしなのだ。いかなる配慮も努力もしない彼女にいつしか訪れたのは、ここ二年間で女学校全体でも彼女を一際目立たせるもの全てだったのだ。それは艶やかさ、堂々さ、軽やかさ、清澄な眼光…誰も舞踏会ではオーリャ・メシェールスカヤみたく踊れなかったし、誰も彼女のようには馬を乗りこなせなかったし、彼女ほど舞踏会でちやほやされる者もいなかったし、それに何故だか分からないが、彼女ほど後輩たちから憧れを抱かれた者はいなかった。いつしか彼女は一端の娘となり、いつしか女学校内での彼女の名声は確固たるものとなったが、そうなるともはや彼女は軽薄で、自分を熱狂するファンなしでは生きられないのではないかとか、男子校生シェンシンが彼女にゾッコンで、彼女もどうやら彼のことが好きらしいが、彼に対する態度があまりにあやふやだったばかりに彼は自殺を図った云々…という流言まで飛び交った。

学生時代最後の冬のこと、オーリャ・メシェールスカヤは女学校内での話題に狂喜せんばかりだった。その冬は雪が多く、太陽に恵まれ、厳寒で、雪に覆われた女学校中庭の高いエゾマツ林の向こう側に早々落ちていく太陽は、明日の日も相変わらずの好天で、光に溢れた冬将軍と太陽を、それにソボール通りの散歩、市立公園での橇遊び、薔薇色に染まる夕べ、音楽会そしてその中ではオーリャ・メシェールスカヤが一番無邪気で幸せに見える、四方八方に滑る橇遊びの人混みを約束していた。そんなある日の長い休憩時間、彼女は講堂内を金切り声ではしゃぎながら追っかけてくる一年生たちから旋風の如く身をかわしていたところ、突如校長からの呼び出しを受けた。走り回っていた足をピタッと止めた彼女は深呼吸を一つだけすると、すでに慣れた女性の素早い身ごなしで髪型を整え、エプロンの両角を肩まで引き寄せると、輝かせた眼で階上へと駆け上がっていった。年の割には若く見えるが、灰を被ったような髪の女校長が編物を手にして書斎机の向こうで静かに腰かけていて、その頭上には皇帝の肖像画が掛かっている。

「ごきげんいかが、マドモワゼル・メシェールスカヤ−」校長は編物から目を上げずにフランス語でこう言った。「残念ですが、わたくしがあなたの素行についてお話しするのにわざわざここに呼び出すのはこれが初めてじゃありませんよねぇ。」

「はい、マダム。」メシェールスカヤは机に歩み寄り、校長の方にじっと目を凝らしたが、顔に別段表情を出さずにこう答えると、彼女だけが出来る軽やかさと優雅さで腰を下ろした。

「私が注意したところであなたは上の空でしょうね、残念ですが、これだけは確信してます。」こう言って校長は糸を引っ張り、ニスのかかった床の上で毛糸の玉がころりと転がると、それに好奇の視線を送ったメシェールスカヤは、またそこで視線を上げた。「二度としません、声を張り上げたり喋ったりいたしません。」彼女はこう言うのだった。

メシェールスカヤには、厳寒なモロースの日に見事なオランダ風ペチカの温もりと書斎机のスズランの爽快さをすっかり吸い込んだこの異常なほど清潔で広々とした校長室が大のお気に入りだった。どこかの煌びやかなホールの真ん中に全身像で描かれた若き皇帝に目を向けてから、乳白色で、丁寧にウェーブをかけた校長の髪の均等な分け目を見ると、何かを待ち受けるかのように押し黙った。

「あなたはもう子供じゃないんです。」意味深長にこういった校長は内心苛々し始めていた。

「はい、マダム。」素っ気なく、ほとんど楽しんでいるかのようにメシェールスカヤは応えた。

「といっても、大人というわけでもないんです。」校長はさらに意味深長にこう言うと、そのくすんでいた顔はほんのりと赤みを帯び始めた。「第一、その髪型はどういう事です? それは大人の女性がする髪型です!」

「マダム、私の髪質が良いのは私の責任ではありませんわ。」メシェールスカヤはこう答えると、きれいに整った自分の頭を両の手で危うく触れそうになった。

「なんとまあ、あなたは悪くないと言うんですか!」校長は言った。「あなたはその髪型に責任もなければ、その高価な櫛にも責任はないんですね、一足二十ルーブルもするパンプスでご両親に散財させていたとしても! でも、もう一度言いますが、あなたはまだ自分が一介のの女学生に過ぎないのだということすっかり見落としているのですよ…」

この時、メシェールスカヤは率直さを失わず、怯むこともなく突然、厳めしく校長の言葉を遮った。

「お言葉ですが、マダム、それは誤解かと思います。私は女です。この責任は誰にあるかご存知ですか? うちの父の友人で隣人、つまり、校長先生のご兄弟でもあるアレクセイ・ミハイロヴィッチ・マリューチンです。あれは去年の夏、田舎に行った時のこと…」

この会話の一ヶ月後、オーリャ・メシェールスカヤが属していた社会にはこれぽっちも共通点のない、見た目の野暮ったい平民風情のコサック将校が、到着したばかりの列車乗客でごった返すプラットホームで彼女を射殺した。そして、オーリャ・メシェールスカヤが校長を打ちのめすことになった信じられない告白が完全に裏付けられたのである。というのも、将校が法廷調査官に対して行った供述によれば、メシェールスカヤは将校をかどわかし、ねんごろの仲となった彼に妻になる誓いまで立てていたが、殺人のあった当日、ノヴォチェルカスクに向かう彼を見送りに来た彼女は駅で突然、自分は一度として彼のことなど愛したことなく、婚約話は全部彼へのからかいでしかないと告げると、マリューチンのことが書き綴られた日記のページを彼に読ませたというのだ。

「私はその文面にざっと目を通すと、おもむろに、私が読み終わるのをプラットホームでぷらぷら待っていた彼女に向けてぶっ放したんです。」将校はこう言った。「この日記、ほら、ここです。去年の七月十日のところを見て下さい。」

日記には次のように書かれていた。

《今、夜の一時。すっかり深い眠りについてたけど、ふと目が覚めてしまった…もう私は女になったのね! パパ、ママそれにトーリャたちはみんな街に戻って、ここに残ったのは私一人。一人になれて本当によかった! 朝は庭と原っぱを散歩、森に入ったとき、この世界には私一人っきりのように思えて、これまでの人生で最高だと思った。昼食も一人でとって、そのあとずっと一時間遊んだけど、音楽を聴いていたときの私、いつまでも終わりなく生きていくだろう、誰よりも幸せになるんじゃないかって気がした。そのあと、パパの書斎で眠り込んでから、四時にカーチャが私を起こしに来て、アレクセイ・ミハイロヴィッチが来たって教えてくれた。私は彼が来てくれて大喜び、彼を迎えて色々お世話できるなんてホントにご機嫌だった。彼が乗ってきた二頭立てのヴャートカ産の馬はとってもキレイで、玄関口に立ちんぼ、彼が家で休憩に立ち寄ったのは雨が降っていたからで、夕方までには体を乾かしたかったから。彼はパパがいなくてがっかりしてたけど、気を取り直して私のダンスのお相手をしてくれたし、私のことがずっと前から好きだったとか言って、さんざん冗談を飛ばしてた。お茶をする前に庭を散歩する頃には、また外も素晴らしい天気になって、すっかり寒くなったとはいっても太陽はすっぽり濡れそぼった庭のあいだをキラキラ輝いて、彼は私の腕を組み、自分はマルガリータを引き連れたファウストだとか言ってたわ。彼は五十六歳だけど、まだまだどうして素敵だし、いつも上品な身なり。ただ一つだけ身なりで気に入らないのは、家に来た時にトンビを羽織っていたことね、あれってイギリス製のオーデコロンの匂いがしてた。でも、眼はまだ若々しいし、黒々としてるし、髭は几帳面に長く二つに分けてあって、きれいな白金色をしてる。お茶を頂いたのはガラス張りのベランダ、なんだか気分が悪くなったので私は低い長いすに横になり、彼はと言うと、しばらくタバコを吹かしてから私の側に座り直すと、また色々と私のご機嫌をとる話を始めては、じろじろと私のことを見てから、手にキスをし始めた。絹の肩掛けで顔を覆うと、彼は肩掛け越しに何度か唇にキスをし…どうしてあんなことになってしまったのかしら、気が触れたんだわ、自分がこんな人間だなんて考えたこともなかったもの! こうなれば助かる方法は一つしかない…あの人に対する嫌悪感にはとても耐えられないわ!…》

この四月の日々が過ぎていくうちに、街はきれいになり、乾燥し、街角の石は白くなり、その上を歩くのも軽快である。毎週日曜日には礼拝後、街の出口に通じるソボール通り沿いに喪服と黒のライカ手袋に身を包み、黒檀製の傘をさした小さな女性が進んでいく。その女性が街道沿いに横断していく薄汚い広場には、煤を被った鍛冶場が数多くあり、そこを野原から爽快な空気が吹き込んでいる。その先をさらに行くと、男子修道院と城市のあいだに曇った天蓋は白み、春の野は灰色に色褪せて見えるも、修道院の外壁下にある水溜まりの隙間を突き抜けて左へ向きを変えると、そこで目にするのは白い菜園に囲まれた背の低い、広々とした庭のようなもので、その菜園の柵には聖母昇天と刻まれている。小さい女性は細かく十字を切り、慣れた足取りで小径を歩いていく。樫の十字架を前にしたベンチまで来ると、彼女は風吹きすさぶ春の寒さの中、薄手のブーツを履いた両足と窮屈なライカ手袋をはめた手がすっかり悴んでくるまで、一時間、二時間と座り込んでいる。春の鳥たちが寒さの中にあっても甘く歌うその声、陶製の花輪の中を唸り通る風の音を聞きながら彼女は時折、自分の命を半分呉れてやってもいい、せめて自分の目の前にはこの死者の花輪がなければと思う。この花輪、この墓丘、樫の十字架! まさか、十字架に嵌め込まれた、この隆起した陶製の肖像板から不死の光を眼光から輝かせているあの子がこの下にいるだなんて、それにこんなに純粋な眼差しを今やどうすれば一体、オーリャ・メシェールスカヤという名前と結びついたあの忌まわしきことと重ね合わせることが出来るのか? −しかし、心の底で小さい女性は、何かしら情熱的な夢想に身を捧げ尽くした人間たちと同様、幸福なのだ。

この女性はオーリャ・メシェールスカヤの担任教師で、若くはない未婚の女性、ずっと以前から現実生活をオーリャ・メシェールスカヤとすり替える妄想に生きている。この妄想の発端は、貧しくて、これといった取り柄もなかった准尉の弟で、彼女は自らの魂を丸ごと彼に、何故か彼女には輝かしきものに映じた彼の将来に、重ね合わせた。ムクデン郊外で彼が殺害された時、彼女は自らを理想的な働き者だと思いこんだ。オーリャ・メシェールスカヤの死は彼女を新たな夢想の虜にした。今や、オーリャ・メシェールスカヤは彼女を捕らえて放さぬ思考と感情の対象となった。彼女は休日ごとにメシェールスカヤの墓前に通い、何時間も樫の十字架から目を離さず、棺の中の花に埋もれたオーリャ・メシェールスカヤの顔色のない顔、それに、ある日立ち聞きしたことを思い出すのだった。それはこうだ。ある日の長い休憩時間のこと、女学校の中庭を歩いていたオーリャ・メシェールスカヤがお気に入りの友人で、体格がよくて背の高いスボーチナに早口でまくし立てるように喋っていたことだ。

「父さんのある本にね、父さんって古くて面白い本を沢山持ってるんだけど、女の美しさはどうあるべきかって書いてあるのを読んだの…そこにはね、ほんととても全部覚えきれないほど色々書いてあるのよ。まあ、もちろん黒々としてて、膠に煮えたぎる目ね、ほんとにそう書いてあったのよ。膠に煮えたぎる目よ! それに、夜の如く黒き睫毛、頬をたおやかに咲き戯れるもみじ、細やかなる体躯、人一倍スラリとした手、そうなの、人一倍ですって! それから、ちっさな足、そこそこ大きな胸、きれいな丸みを帯びたふくらはぎ、貝殻色の膝、撫で肩。私、沢山のことをほとんど暗記したほどよ。だって、書いてあることってみんな正しいんだもの! でもね、一番大切なことって何だか分かる? 軽い吐息よ! だって、私のってそうでしょ、ほら、聴いてみてよ私の吐息、ねぇ、言った通りでしょ?」

今やこの軽い吐息も再び世界に、この雲の広がる空に、このさめざめとした春の風の中に散ってしまったのである。

ヌカドコの永遠


生き物とは何か。
それは永遠を担保にして、束の間の命を手にした者たちのこと。
破産すれば、しかし、担保は取り上げられるのでもなければ、売却されるのでもない。
それはすんなり返還される。でも、どうやって?
すべての財産を失う代わりに、紙切れ一枚の人生を生と死のクリップで閉じれば、還ってくる担保。
永遠を分かち合うほど素直な遺産相続人などいやしない。
だから、自分でそれは片づける。
のし掛かる無担保の担保、命と決して釣り合わぬ、その辺に転がる漬け物石の墓碑。
だから墓地は、破産家族の憩う糠床。

2006/05/06

ヘドロ&カプリシャス



反吐が出そうになることがある。

海底深くにも浅くにもある、ヘド。人間世界の浅瀬にも深みにも、ヘドはある。

ロイターの今日の記事は、何とも言えぬ、その浅瀬のヘドの異臭を漂わせていた

「ハリウッド、保守派キリスト教徒を新たな市場に」

まあ、どうでもいい話だが、引用文にある句点の前半部分(「ハリウッド」)はその後半部分に続く「市場」という言葉といつも二人三脚なのだが、その二手に挟まれた「保守派キリスト教徒」というのはここでは何を語っているのか。

要は、ハリウッドはこれまで保守派をマーケティング上無視してきたということを言っているのだが、本当に無視しているのだろうか。「パッション」を例にとって、3億ドル以上の興行成績を挙げたその背景に、保守派の存在を無視できない事実があるというのだ。だが、アメリカがキリスト教国であることは事実上誰も否定していないし、ましてやハリウッドがそんな明らかなことを知らなかったわけがない。むしろ、これまでハリウッドがやってきたことは、ヨーロッパ近代国際法上「先占」(オキュペーション)と呼ばれ、華々しくも「西部開拓」という名で北米大陸の歴史を飾る植民運動が物理的な限界に達したあとの世界を光と陰によって閉じこめること、つまり、砂漠のような西部に自由市場を切り開くべく耐えず蠢き続けるピューリタン的野望を跡づける絶対主義の陰影を映像という陰に閉じこめたのだが、その陰は今度、映像そのものに憑依し、ハリウッドを動かし続けてきたのだ...芸術の名の下で、あるいはエンターテイメントという名目で、それはあたかも、自らが閉じこめた陰影を二度と外に漏らすことなどないと言わんばかりに。だから偶然ではない、ハリウッド俳優たちの示す一種の後ろめたさ、自らの陰をひた隠そうとする政治活動がもう一つの陰としてスクリーンの外に差し込むのをここに見るのは...

先占の後には「飼い慣らす」作業が続く。これぞコロニアルの発想だが、そこに以前から生きていた者たちに対して「生かさず殺さず」の精神がなければコロニアルは成立しない。また、入植者による独立への闘争ともなる。そして、アメリカ入植者たちはこの独立を勝ち取る。だが、ここには「先占」という前提が忘却されることは決してなく、もう一つ別の闘争もあり得る。つまり、「生かさず殺さず」の中で生き延びてきた者たちの闘争だ。今のハリウッドにとっての脅威は保守派ではなく、このもう一つの闘争を続ける者たちであるはずだ。だから、ハリウッドが無視したくても無視できないのは、むしろこちらの闘争の方であって、今や保守派となったブルジョアジーの闘争ではない。

紛れもなく、われわれが映画において見ているのは陰影であるが、ハリウッド映画となると、その陰・影は二重のカゲで出来ている。「先占」という「唾をつけた者勝ち」の論理、そして、ローマ教皇アンド国際法によるそれへの「お墨付き」という二つのカゲだ。

すべての映像がこうだというのではなく、他でもないアメリカ映画だからこそ、このカゲには意味があるし、アメリカ映画の意味もあると思う。東インド会社のように、歴史的役割を果たし終えたあと忽ち消え失せたように、恐らくハリウッドも消え失せるはずである。それは、ライセンス販売という手法を見ても分かるように、そのスタンスが200年以上前と何一つ基本的には変わっていないことから考えても予想がつく。だが、茶が未だに飲まれているのと同じく、それを望む者がいる限り、映画はなくならないだろうし、たとえDVDがデフレの谷底に投げ込まれても、そうだ。大陸会議ならぬ、海洋会議でも開いて、アメリカのカゲと闘う者たちは独立を果たさなければならないのだろう。

アカデミー賞というお茶の品評会も、いずれは数奇者の懇親会になろうが、それはあくまで、この世のカゲに包まれながら...だから、というわけでもないが、ロイター電には、ヘドが出る。

2006/05/01

アンチ・カルヴァン

「不快とは何か」などと書くと、つい快楽原則とかを逆に想像してしまうが、不快とは快を誘引するものであることは間違いない。例えば、神戸市職員の「不快手当」。聞いて驚くなかれ、と言いたいところの響きを持つこの「手当」には勤労を不快とするアンチ・カルヴァン派的なニュアンスが伴う。勤労はエネルギーを消費する、しかもその消費が徒らなものとすれば、むしろ浪費と呼ばれるべきであり、したがってその浪費は勤労者にとっては不快、よって手当の対象となる。

これをアンチ・カルヴァン的と呼びたいのは、つまり、仕事を予定調和的ではない非ー天職としての仕事として位置づけているからで、これは言い換えれば、偶さかに選び取った仕事であり、誰にでも出来る仕事であり、卑しい仕事であり、蔑まれる仕事だということをこの不快手当に相当する勤労概念が自ずと吐露しているからである。

公僕という言葉は使われなくなっているそうだが、だとすれば、宗教改革以前の農奴と同じく、救われない職であると言うことだ。そこには何らプランもなければ喜びもない身を引きずり、苦悶に歪んだ面をただ地面にねじ込まれているばかりの下僕の末路しか残されていないということだろう。だから、なにがなんでも、不快手当は必要なのである。

そして最後に。
通常の勤労への上載せで、「勤労手当」というものもある。よく頑張ったね、という手当だ。
現代版アンチ・カルヴァン主義者よ、恥を知れ。