2006/03/16

人類は何をもって生きながらえるのか


ブレヒト『人類は何をもって生きながらえるか』

紳士諸君に告ぐ、汝の使命を
死に値すべき七つの大罪より我らを清めんことと思いなす者よ
先ずは基本的な食のあり方というものを見直さねばならん
そうして初めてご託を並べるがよい、すべてはここから始まるのだ

節度を説き、腰のくびれに気を回す輩どもよ
一度でいいから学ぶがよい、世界のあり方を
いかに体を捻ろうと、いかなる出鱈目を言おうとも
食が第一、モラルなど後からついてくるのだ

しかして、念を押そう、この今という時に餓え苦しむ者たちが
しかるべき助けを得るのは、初めて肉が諸人に切り分けられたときなのだ
人類は何をもって生きながらえるのか?

人類は何をもって生きながらえるか?
この事実、何百万の民が日々拷問、
燻殺、刑罰、緘黙、抑圧のもとにおかれている事実だ
人類が生きながらえているのは、同族種を押さえ込む
その手練手管のお陰なのだ
よって、一度でいい、この事実を金切り声で叫ばないでみよ
人類は獣の業によって生かされている

1928

2006/03/14

たそがれて


こうやって、悪魔君でもたそがれる...

主人と賓客

エコロジカルなマインドとは何か、と少し考えてみる。変な言葉だが、今やこれを聞けば何となく連想するものは誰にでもいくつかはあるだろう。まあ、別段、かく言う自分は誰に強制されたわけでもないのだけど、「地球にやさしく」という言葉が昔から気になっているので、今日はこの種の「やさしさ」を取り上げる。

この「マインド」は、端的に言えば、「世界の手段化」への抵抗なのだろう。ここでいう手段化とは、つまり、地球の主としての搾取をいう。まあ、捕鯨を止めたところで、何かを食するのがわれわれの定めであるから無駄な抵抗といえばそれまでだが、この抵抗の意味は一体何かを考えてみないといけない。

主人は始めから主人であるわけではない。彼は自分が主人であることを認めてくれる者を常に必要としているし、その必要性を必然性に変えてくれる者に依存している。主人の真理条件はこの依存者である、とすら言える。例えば、イギリスの「バトラー」は単なる召使いではなく、主人を取り巻く環境を整えて管理する存在者である。それを主人がやってしまう(つまり、主人たる条件を無視する)と彼(バトラー)の存在意義は無くなるので、それには主人も絶対手出ししてはならない。主人の主人たる条件としての依存はこの「手を触れない」という命令によって初めて成立する。だから、主人というのはこの自らへの命令がなければ主人でもないし、何ものでもない。単なる人である。

民主主義はこの「単なる人」であり続けることを考えようとする。選挙権といったことはすべて制度上の問題なので、これをこの主義の根幹というのは単純に可笑しい。むしろ、主人を誰にするかを決めるに当たって、「単なる人」が自分に対して向けた命令を貫徹する可能性を問うことにある。「主人を決める」といったが、これは自分に依存してくる人間を決めることだから、「みんなのため」とか「国のため」云々は全部後づけのデマゴギーに過ぎない。

大臣という言葉があるが、たとえ偉そうに聞こえても、この漢字にはそんな意味は含まれていない。むしろ、仕える者の親玉くらいの意味であって、やはりこれも主人に仕える「バトラー」なのである。本来は「単なる人」だった連中が主人を決めた上で、その長になるものを決める過程で生じてくるのが大臣であって、その人物に一目置くというのは、精々、喧嘩が強いとか口が誰よりも達者という程度のことに過ぎない。

さて、手段の話に戻る。
世界の目的が一体何なのかは最初から明らかではない。だから、手段も同様に、最初から明白ではない。どこに的を定めるかは、上に言った「主人」を誰にするかによってあらかた決定される。そして、その手段は一様である。なぜなら、「的を射る」ことだけだからだ。エコ・マインドの的は「地球」である。その外へ出る必要は今のところない。地球が「主人」だからだ。客人たる生命体あるいは生態系の「もてなし」で頭が一杯なのである。だが、奇妙なことに、このもてなしに頭を悩ませている者自身が「客人」なのである。これは本来、主人が考えるべきことで、客は任せておけばよいのだ。だが、そうはいかない、とこの客たちは言う。だから奇妙なのだ。人の家に上がって、勝手に冷蔵庫を開けるようなものである。これは奇妙どころか、不躾ですらある。でも、それでいいのだ、と客は言う。客はさらに、主人にはもっとやさしく接しないとダメだと言う。なぜなら、主人の頭皮は老化し、毛は無様にも抜け始め、ヤニだらけの歯は零れ落ち、脳味噌は血腫だらけで今にも炸裂しそうだからだ。要は、死にかけているので、蘇生術を施そうというわけである。世界はもはや客人が憩う迎賓の間ではなく、緊急病棟なのだ。だから、客人の中にいた医者が手を上げて立ち上がり、屋敷の至るところにカテーテルを挿入するのである...まあ、こういう喩えは際限なく続けられるが、このくらいで止めておこう。

しかし、主人が瀕死なのか、それとも血相を変えて立ち働く客人が酸素不足で錯乱状態なのか、果たしてどちらなのかを考えないといけない。むしろ、地球=主人を手玉にとって搾取するというのは言い得て妙だが、的はずれではない。地球=世界を手段にして目的としないのはけしからん、というのは汎神論的には正しい。だが、どんな「単なる人」も、自分が手段になることは望まないのだとすれば、これまた都合の良い話である。つまり、この客人たちには目的はあっても手段がないのである。だから、それは蘇生術に見えて、ただのお掃除にしかならない。政治用語で言えば「パージ」だ。

...病室には何本もの管につながれた「地球号」が横たわり、その周りには清掃服を着た医者が取り囲んでいる。今、われわれが住むのはそんな室である。

2006/03/06

Dominus mecum...

【8日】「“ネオ・ヤポニカ種”が絶滅の危機」

絶滅危機種に指定されているネオ・ヤポニカ種の交配に失敗し続けている泥国アカデミー(Academica Dei Cosmopolitanicae)のクシェストフ・バープキン博士研究チームは7日、今後の対応策を協議した結果、2512年以来100年近く継続してきた「ネオヤポニカ・サルヴェーション計画」(通称ヤポサル)を来期でもって放棄する発表を行った。



バープキン博士の談話
ー現時点において自然状態での同定が可能な「ネオヤポニカ」種の半分以上は、2403年以降の急激な寒冷化に伴ってその定住圏を東シベリアへ移動させています(咳)。しかも、その多くがすでにオス化してしまったたメスという有り様です(笑)。これまでに観察されているデータから推定しますと、すでに性変異段階に入った群種が再オス化する可能性は0.000000000000001%の確率ということが言えるでしょう(冷笑)。この話と直接の関連性はまだ確認されていませんが、去年末にはこれまで学会で否定されて続けてきた「レミング」型集団自殺を証明する実例がチャイニーズ=チベタン科学アカデミー(通称チチアカ)によって公式に発表されました。レミングとは、いわゆるタビネズミのことですが、この生態現象は個体数調整を行うために個体群が集団自殺するというもので、進化生物学史上の神話的仮説として登場して以降、まだ19世紀的呪縛から逃れていなかった生物学者を捉えた時期がかつてありました。その後、遺伝子中心主義の時代になり、完全に無視されることになりますが、ここ数年、ネパール帝国アカデミー(略称ネアカ)からの新たなデータが収集されたことで、にわかにまた脚光を浴び始めていました。この集団自殺によって完全自滅してしまったのはネオヤポニカ亜種の「ネオオサカーンス」です。この亜種はもともと「笑動物」という異名をもち、北半球コロニーの生物学教科書では必ず「お笑いコラム」に紹介することが各国アカデミーでは義務づけられています。ですから、言葉遊びになって恐縮ですが、この亜種が絶滅してしまったことでわれわれの「笑いの種」がなくなったことは大変悲しいことです。(博士はここで喉を潤そうとしたが、笑いがこみ上げてきたためにインタビュアーの顔へ放水)...とにかく、亜種のネオオサカーンスによる自滅行動とネオヤポニカのメス化とのあいだに遺伝子レベルでの関係がないかどうかを今後も静観していく必要はあるでしょうが、「ヤポサル」を継続する気はもう全然ありません。年間5億ドルの大枚を叩いてエコ・コイトゥス(第5世代人工発情装置)を再三購入してまで、漸次野生化するサピエンスを救済する計画には泥国国内からも非難の声がそろそろ絶えなくなってきていますから。



サイエンスライターのマジック・ベンジャメン・ロヨラ・サールズベリー牧師のコメント
ーまあ、人類にとって「笑いの種」がなくなるというのは、「失笑」ものかな?
Dominus mecum!


インタビュアー:サー・スチュワート・カンタベリー特派員(2612年タンゴの節句に「イヒヒ」と笑うところを記念撮影、写真右)
写真協力:スー・フランソワ・バトラー宣材写真本舗

2006/03/01

忘れられない守護聖人


「守護聖人」と題したが、私はカトリックとは何の所縁もない者だから、これから書くことは単なる数珠つなぎ的な雑記である。


だから話は全く関係ないところから始まる。


コードネームは「スカーレット」

ここ最近というもの、日本には「インテリジェンスが必要だ、全くその意識が欠けている...云々」と、さも何かの秘密を握っているような物言いの似非賢者たちがテレビを賑わしている。特に国家戦略がらみの言説では「○×研究所所長」とかいうダブルに太っといネクタイ(大抵赤色だが、緋色がお似合いなのに)のオッサンがニュースキャスターの横にちょこりんと座っていて、まだこれから五時間くらい喋っても足りないってな感じで帰って行ったあとのコマーシャル明けに、目がチカチカするネクタイを見なくてすむのは何と清々しいことか。

「インテリジェンス」という言葉が今の意味で使われるようになるのは丁度16世紀の半ば以降のことで、それまではいわば、広く一般に耳よりの情報や告知・警告を届けるといった「広告」の意味合いで使われるのが普通だった。これを日本に持ち帰ったのが明治以降のことだから、意識が欠けているのはある意味当たり前のことなのだけど、こうやって、この16世紀が今回のネタの発端となったのである。

気になりだした本家本元の情報収集活動=諜報を色々と調べていくと、王家の周辺に諜報活動の専門集団が形成され始めるのがやはり同じく、この16世紀で、より正確には、新旧教徒の覇権争いが激化した聖バルトロメの虐殺前後の時代に遡る。

と、ここまでは単なる枕でしかない。
聖バルトロメ、これは十二使徒の一人。そして、ここでやっと先に触れておいたカトリックのお話である。

この聖人はカトリックではパトロン聖人(などと書くと、どこか遠いところからやって来た人みたいだけど)、いわゆる守護聖人。でも、聖書を見てもこの人の名前はほとんど出てこない。ヨハネ福音書になると、名前すらない。どうしてなのか、という理由はここでのテーマじゃないから深くは掘り下げないけど、彼の本名が実は「イエス」だったことから、混同を避けるために変えたという話がある。これはシリア系の伝承らしいが、しかし、これもどうでもよい。

ただ、少し話を保たせるのなら、こうだ。
ミケランジェロの「最後の審判」に皮だけになってぶら下がっている人が一人いる。これは後に出来たバルトロマイを描く際の伝統で、生きたまま皮を剥がれて殉教したことから、彼は革職人のパトロン聖人ということらしい。何とも日陰である。ダラリと垂れたダリの時計って感じ。

問題はここから。

イエスの死後そして復活後、使徒たちは宣教の旅に出る。パウロによる異教徒ストア派の前での演説があまりにドラマチックな舞台装置には少々驚きだが、せっかくの晴れ舞台なのに肝心なオチがないので失笑を買ってしまう。一方、バルトロマイはインド、そしてさらには、自殺したイスカリオテのユダではなく使徒であるタダイのユダとともにアルメニアへ向かったという(ここにアルメニアが世界最古の使徒教会と称する所以がある)のだけど、これもあまり関係ない。ここでは、日陰にいたバルトロマイからさらに日陰のユダにバトンタッチをしてもらう。

昔から深夜はハリウッド系ドラマというのが定番だが、僕が好んで流し見していたのが「ヒル・ストリート・ブルース」だ。アメリカにとってシカゴという町が特別な場所(アメリカ第二の都市、人口密度では第三の都市)なのは分かるけど、日本風の「部長刑事」とか「はぐれ刑事」みたいな泥臭い刑事物は先ずない。アメリカの刑事物は大概、悪人と善人の区別がつかず、だから、警察署内での横領とかがテーマになりやすい。勧善懲悪とかにしようとすれば、どうしても「ナイトライダー」みたいなフリーメーソン風の超然とした秘密組織が必要になってくる。日本でそういう物を見るのなら、刑事物はお薦めできない。それこそ「仮面ライダー」が一番。

話がそれたが、やっと本題。
シカゴは1770年代にハイチ人(非白系)のジャンーバティスト・ポワント・ドゥ・サーブルが最初に根城を構えた場所で、実はアメリカ史においての彼の位置は、白人でないことから良い扱いを受けてはいない。町の長にもなれなかった彼は自宅を売り渡して西部へ旅立つわけだが、その理由も未だにはっきりしていない。アメリカの歴史においては、いわば「敗残者」に仕立て上げられてしまったままだ。

上段で、すでにバトンタッチしてもらっているユダにここでやっと登場してもらうが、彼は名前が同じ「ユダ」ということもあって、祈りの際の混同を避けるために、祈りの対象にはあまりならず、ある時期まで高い人気がある聖人とは言えなかった。ところが、ヨーロッパではスペイン・イタリアというカトリック教国で日陰にあった彼はいわば「リバイバル」を果たす。これが1800年代初頭という。はっきりとした因果関係はここには見いだせないが、南アメリカ経由でこの聖人崇拝は合衆国アメリカに辿り着く。その発火点となったのが他でもないわれらがシカゴである。

ユダは敗残の守護聖人。

「ヒル・ストリート・ブルース」の舞台はシカゴ。だから、シカゴ市警察の守護聖人はもちろん「聖ユダ」。

敗残の苦悩に耐える場所、そこにはいつもユダがいる。

2006/02/28

時計を全部止めてくれ、電話の線も切ってくれ


W.H.オーデン

時計を全部止めてくれ、電話の線も切ってくれ
うるさい犬は美味しい骨で黙らせて
ピアノの音を消し、太鼓は布で覆い
棺を外へ出してくれ、葬い客を通しておくれ

飛行機に頭上で嘆きの円を描かせて
空に書き殴るメッセージは、カレ ナクナル
喪章を伝書鳩の白い首に巻き付け
交通整理の警官には綿の黒手袋を着けてもらおう

彼は私の北、私の南、私の東そして西
私の平日、私の日曜の憩い
私の真昼、私の真夜中、私のおしゃべり、私の歌。
愛はいつまでも続くと思っていた私だが、間違いだったのさ。

星なんていらない夜だから、一つ残らずつまみ出せ
月もさっさと片づけて、太陽も解体撤去だ
海は遠くへ押し流し、森は吹き飛ばすのさ。
こうなった今ではもう何の足しにもならないのだから。

2006/02/16

空母「いしわた」

【おパリ15日時事】
西域での改名を目指していたおフランスの退役空母「おクレマンソー」(現役時最大排泄量3万2780豚)について、オシラク大統領は15日、仏本土(=冥土)に帰還させるよう命じた。昨年12月末に西域へ出発した同空母は、結局全く改名作業を行うことなく「黄泉がえり」を余儀なくされることになった。
予定されていた改名後の名称は「空母いしわた」。
戒名は「仏呉万僧石腸即是空母」。

2006/02/11

アリスとテレーズ、あるいはチャーリー・アンド・エンゲルス

「欲望果てる国のアリスとテレーズ」

AFP通信2006年2月14日送信予定の原稿から:

「欲望果てる国のアリスとテレーズ」

今春、ブリティッシュ・レズビアン・ムーブメントにおいて一つの大輪の花が開いた。その衝撃的な内容と芸術的な手法によって演劇界の話題をさらったデュオ劇作家、アリス・ドノヴァンとテレーズ・オッカムだ。

ポスト・フェミニズム運動の衰退していく中、彼女たちが今度持ち替えた武器はシニカルな「ダガー」とも呼べそうだが、その内容の赤裸々さを存分に理解するには、とにかく一度味わうしかない。誰もが読んだことのあるような話を彼女たちは求めちゃいない。その小気味の良さはエイジアンな辛みとジャーマンな苦みのブレンディングが生み出しているものかも知れないが、それは勿論、読者が判断してくれればいいことだ。

かく言う筆者も、実は、今から紹介する彼女たちの小品で出会った言葉のいくつかには今も首をかしげている。知人の言語学者に聞いても、「さっぱり分からない」の一点張り。これには正直、参っているのだ。だが、分からないなりにも、ほかの分かったことだけで充分満足しているのだから、なお一層彼女たちには惹かれてしまうのだ。

とにかく、この彼女たちが今冬世に問うた『D級数』からの抜粋を少し読んでみて欲しい。

『D級数のチャーリーとエンゲルス』by Alice Donovan and Terrese Occum(自動翻訳)

「Dedhalavoch級数」とは、No.1(俗にOssicusと呼ばれる。複数形はOssicua)の洪水に押し流される黄金人間の数が、二回目になるとその倍になると言う、とても信じられない嘘のような数学的秘術であることはカバラ系数秘学者の皆知るところである。これについては、どうしても話の続きをせぬわけにはいかない。

「二回目」というのは、実はOssicusとはずいぶん様子が異なる。Dedhalavochの繰り出すNo.2(俗にUntiumと呼ばれる。複数形はUntia)の雪崩に幸運にも呑み込まれた者たちは、その夜ミダス王の夢を見るというのである。だがその夜見ることになる夢というのは、手にするもの全てを黄金にしてくれるという魔法が切れてしまった後のミダス王の哀れ末路、後日談なのである。

今度の彼が手にするものは全て、価値形態論を論じた『資本論』第一巻に変わってしまうというのだ。絶望に取り憑かれた王は、逃げまどう侍従たちを片っ端から捕まえようとするが、その彼らはというと、阿鼻叫喚であるー

「お許し下さいませ、どうか、チャーリーになることだけはご勘弁を」

「私もでございます、陛下! どうか、エンゲルスにだけは魂を売りたくはございませぬ、お許しを!」

「何を言うか! 貴様どもは黄金になりたいと思わぬのか!」

ーと、見るも無惨なただの価値形態へと変られてしまうのだった。

そして不幸の舞台はこれで幕を引くわけではなかった。そこに、自分の周りを黄金の柱で飾り立てられていく王に哀れみを垂れんとして口づけようとした王妃があった。そう、その王妃すらも裏表紙に往年の髭面デュオ、チャーリー・アンド・エンゲルスの宣材写真を配したあの黴臭い『資本論』へと魅惑の変身を遂げてしまうとは!

嗚呼、この運命の女神たちの謀りごとによって変えられてしまった黄金人間たち!そしてこの夢が、実は黄金人間となった自分たちの夢であったことを知る、吉夢ならぬ既知夢だということも彼らには想像すら出来ぬことだったのだ。

その後、幸運にも、価値形態になることをただ一人免れたDedhalavoch Scatologiqueは、国外追放の憂き目にあった王を断首すべく、断頭台の階段に夜半すぎから降り積もった雪をせっせと掃き清めてしまうと、宮殿を岸壁近くに仰ぎ見ながら、価値形態の並び立つ渚でさざめくOssicuaとUntiaの波頭に身を預けて現れる一つ目巨人フィボナッチの姿を、見晴るかす水平線の向こうにいつまでも待ち続けていた。

ましおい。

2006/02/04

僕の旅したことのない場所

E.E. カミングス
あるどこかで、僕の旅したことのない場所で、嬉しいことに
いかなる経験も及ばぬところに、君の瞳がじっと黙ったままでいる:
そこはかとない君のか弱き素振りの中に、僕を閉じこめてしまうものがあるのか、
それとも僕にはそれが近すぎるがために触れることが出来ないのか。

君のちょっとした眼差しに僕はいつも容易く剥き出しにされてしまう
自分を拳のように堅く握りしめているのに、
君は決まって僕なんか花びらみたいに開いてしまう、まるで春が開く
(その巧妙で、神秘的な指使いで)その先駆けるバラのように

あるいは、君が僕など閉じてしまいたいと思えば、僕と
僕の命など、いとも可憐に、瞬く間に、閉じ込んでしまう、
まるでそれは、この花が心の中で
至るところで気遣いながら降り行く雪の姿を思い描く時のように

何ものも、僕らがこの世で感じるものに,
君の激しい脆さほど力強いものなんてない。だって、その織物は
それを織り上げた土地の彩りで僕を跪かせ、
死と永遠を互いに息づいたままにして返そうとするのだから

(僕には分からないままだ、君の一体何が僕を閉じさせたり
開かせたりしているのか。僕のなかの、あることだけは理解している、
君の瞳の声がどんなバラよりも深いところにあるのを)
誰一人、雨でさえ、そんな小さな手はしていない

2006/01/29

孤独(1956)


孤独 

ヨシフ・ブロツキー

ときに、疲れ切った意識が
釣り合いを失い、
ときに、この階段が
甲板のごとく
足下を払い、
ときに、夜の孤独が
人間たることに唾吐くことあればー

君には可能なのだ
永遠について思いをめぐらし
そして、芸術作品の
理念、仮説、受容、
そして、ちなみに言えば、かの
イエスを孕んだマドンナの純潔にも
疑念を投げつけることも。

だが、与えられているものに頭を垂れる方がましだ、
それには深々と掘られる墓があり、
年月を経た末に
愛しきものと映ろうもの。

そうなのだ。与えられたものに頭を垂れる方がいい、
それには短い路程があり、
後になれば
不思議なまでに
広々としたものに、
大きく、砂塵を被る、
妥協で敷き詰められた道に、
巨大な翼に、
巨大な鳥に見えようもの。

そうだ。与えられたものに頭を垂れる方がましだ、
その貧しい物差しは
その後、極限にまで辿り着くと、
欄干となってくれようし
(さほど綺麗とまでは言わない)、
刃のこぼれ落ちたこの階段を
びっこを牽いて歩く君の真理を
支えてくれようもの。

1956

2006/01/25

異なる者

カザフスタンのSF作家ルキヤーネンコ原作の「夜の警邏」(ナイト・ウォッチ) が数年前に映画化され、この春には日本にもお目見えすることになった。監督はチムール・ベクマンベートフ。

ポストソヴィエト期を代表する「ブロックバスター」映画としてロシアではすでにカルト的人気を誇るこの映画に注目したアメリカのフォックス社は、即座にその上映権を買い取った。また、遅ればせながらも、この現象に合わせて原作の日本語訳も去年末に出版されている。そこで今日は、この原作ではなく、映画化された「夜の警邏」をめぐって綴っていきたい。

すでに日本語訳の題名は「ナイト・ウォッチ」となっているのに、敢えてここで「夜の警邏」としたのにはそれなりの理由がある。また、これを簡略化して「夜警」と呼んでも別にいいのだが、この作品には「デイ・ウォッチ」、「ラスト・ウォッチ」、「ドーン・ウォッチ」という続編があるため、第一作を「夜警」してしまうと、その後に続くべきしっくりくる日本語が準備されていないため、バランスが悪い。だから(?)、「夜の警邏」なのである。

さて、映画である。
映画と同様、「警邏物語」に登場するのは「光」と「闇」である。しかし、それはーこれまた映画の成立条件と同じくー単なる前提であるに過ぎない。むしろ、「警邏」の始まりは、この世界を構成し、均衡関係を維持するべく結ばれた二極間の「和議」「合意」が崩れるところに置かれる。もう少し詳しく述べるべきだろう。この世界はその最初から「光」に満たされていたわけではなく、その傍らで「闇」を持ち、常にその両者の間でヘゲモニーをめぐる争いが繰り返されてきたのだが、その二つの力は互いを殲滅することに消尽され、いつの日か両者諸共絶滅する事を悟ることになる。そしてそれ以降、休戦を意味するはずの「和議」が結ばれる。それは、光の領域からは闇の力を、また闇の領域からは光の力を排除するための「警邏」を互いが引き受けるというものであり、それによって勢力の、ひいては世界の均衡を目指すというものであった。ところが、いつの日かこの二つの均衡関係を破る者が現れるーこれが、物語の主役たる「異なる者」である。

「異なる者」の前に「物語の主役」という言葉を置いた。
物語にはその終わりをもたらすはずの主人公がいる(とされる)。「物語」という枠はそれが枠であるかぎりは「終わり」を要請される。あるいは、それを自ら求めすらする。それが救済という形であれ、殲滅という形であれ。だから「物語」があるかぎり、例えば、キリストがこの世界に救済をもたらすためには世界はその終末へと導かれなければならない。これも「終わり」のヴァリアントであり、彼もまた肉と霊に引き裂かれた者=「異なる者」の歴史的典型である(無論、この「引き裂かれ」という言葉には異論があろうが、ここでは境界点に立つ者という意味で受け取って頂きたい。そうでなければ、砂漠での「誘惑」という言葉が持つ意味は決して理解されないだろうから)。

さて、ここでもう少し説明を加えたい。
「異」とは「他」の謂いではない。それはまた単なる化け物でもなければ、肉欲を指すのでもない。それは、光あるいは闇の領域を動き回りながらも、決してどちらにも加担してはならないことを掟とした者たちであり、同時にその二つの間で引き裂かれている者のことである。「異」をめぐる物語は従って、常に二つの力がぶつかり合う境界点に立たざるを得ないという意味での脆い均衡点を維持すること、よって、砂漠における数々の「誘惑」を克服してもなお忍び寄る力(どちらの力かは知ることが出来ない)がざわめく緩衝帯である。

話は少し逸れてしまうかも知れないが、「外交」という言葉は「外」と「交わる」から成り立っている。語源は知らずとも、そこに倫理らしきものの要請を嗅ぎ付けることは出来るだろう。だが、そこに要請されているのは「均衡を破らない」という倫理であると同時に、「譲らない」ために必要な権謀術数であり、そこから次のものが導き出されるー「諜報」である。これはいわゆる「外交」以外の道筋を常に自ら用意しておくための「インテリジェンス」のことであるのだが、この英単語は時に「情報」という無臭性の言葉に置き換えられることがあるが、上の「権謀」を抜きにしてこの「情報」には何の意味もなく、このとき翻訳は芳香剤と成り下がる(Odecolon-traduttore, traditore!)。

映画原論をここで書くつもりはなかったのだが、「夜の警邏」を見ることによって何かが分かるような気がする。それは、最初にも書いた「光」と「闇」の主題をめぐる「異」の倫理と映画の倫理のことだ。

光だけの映画などないように、闇だけの映画もない。分かり切ったことだが、映画に内包された「光を見る」ために、われわれは予め用意された「闇の箱」に放り込まれる。あるいは、進んでその中に入り込む。映画はだから、予め準備されたこの二つの領域の真ん中に立つことをわれわれに絶対的に要請してくるわけであり、それを受け入れることによって映画は成り立つ。ここではまだ解釈は問題ではない。あるいは、解釈はこの「異」の領域を形作る観者である人間がそこに、つまり「異」であり続けることに耐えられないギリギリの状態のことなのかも知れない。確かに、こう言い切ってしまうと少し強すぎるかもしれないが、「解釈」は「均衡を破る」ことなのであり、その意味ではこの警邏物語の主題と同様に、危険な「異なる者」の誕生を常に意味しているのかも知れない。

第一作は他でもない、この均衡を破った「大いなる異人」の誕生譚なのである。そして、それは、危険な「解釈」についての物語ではなく、「解釈」が解釈であるかぎり、そのありきたりな危険の常に生まれざるを得ないことをめぐる物語(警邏は常に巡回する)でもある。

2005/12/24

未来都市ローマ


今日、仕事から帰るとめずらしく白黒の「ローマの休日」がかかっていた。
テレビをつけたのが有名な「真実の口」のシーン。
この映画が撮られたのが50年代あたりだろうから、きっとこの真実の口もさぞかし大勢の人間に手を突っ込まれて、
嗚咽をこらえながらあり得ない胃液を口から垂らしてきたのだろうなと想像。
そんな想像をしていると、この先、つまりこのあと数百年のうちに摩耗が進んだとき、
きっとこの口も顎の先にまで広がり、きっと誰も手を突っ込むのも止めてしまい、
仕舞いに鼻か目に指をつっこみ始めているのだろうと、これまた想像。
「顎の落ちた真実の口に、片方だけ大きく空いた鼻孔」


コンダクター:というわけで、あの映画はもう現実にはない昔の姿を映していることになるかと思います。では、今度はマルクス・アウレリウスの像がある広場へ戻ってみましょう。
旅行客:ははぁ、だから、「真実の鼻」なんだぁ...
(ブロッガー:こいつアホや、納得しとる)
旅行客:小指は余裕やナァ。
コンダクター:「嘘を言ったら鼻が垂れる」っていいますから、必ずティッシュのご用意を!
(ブロッガー:コンダクターよ、恥を知れ、恥を)
旅行客:あ、二本入った。

2005/11/18

ジョン・ダン『蚤』



THE FLEA
by John Donne

MARK but this flea, and mark in this,
How little that which thou deniest me is ;
It suck'd me first, and now sucks thee,
And in this flea our two bloods mingled be.
Thou know'st that this cannot be said
A sin, nor shame, nor loss of maidenhead ;
Yet this enjoys before it woo,
And pamper'd swells with one blood made of two ;
And this, alas ! is more than we would do.

O stay, three lives in one flea spare,
Where we almost, yea, more than married are.
This flea is you and I, and this
Our marriage bed, and marriage temple is.
Though parents grudge, and you, we're met,
And cloister'd in these living walls of jet.
Though use make you apt to kill me,
Let not to that self-murder added be,
And sacrilege, three sins in killing three.

Cruel and sudden, hast thou since
Purpled thy nail in blood of innocence?
Wherein could this flea guilty be,
Except in that drop which it suck'd from thee?
Yet thou triumph'st, and say'st that thou
Find'st not thyself nor me the weaker now.
'Tis true ; then learn how false fears be ;
Just so much honour, when thou yield'st to me,
Will waste, as this flea's death took life from thee.

2005/11/12

ラムサールで踊ろう


ニュースは偉大である。
というより、こんなニュースを聞けるということのメディアの偉大さというべきか。

場所は和歌山、串本。
そこそこキレイな海のある場所だ。
珊瑚礁があるほどなのだから、それは誰も否定しない。
そこに人が集まったのが晴れの広がった今日の串本漁港。

最近はどこもかしこも記念物だらけである。
バス停のベンチで座っているお婆も知らぬうちに記念物になってしまうものだ。
それが気まずいって言うので、バスの中には色違いのイスが居並んでいる。
そうすることで、非記念物人を座らせないようにするわけである。

ちなみに、チェルノブイリの衝撃的な話。
十代の子供たちが初老連中に席を譲らないという。
その理由は、連中より先に自分たちの方が早く死ぬからというのだ。
意味は違うが、自らを記念物化したという意味では論理は同じである。

この数千年、人間は大して変わらないのに、周りはすっかり変わっているという。
こりゃたいへんなことだっていうので、記念物という唾をつけて回っている。
串本も、最近この唾がついた場所だ。ただ、その唾のつかなかったのがオニヒトデさん。

そうとも、大気中にはたいそうなメロディが鳴り響いている。
こいつは大砲の音だ。耳を凝らしてみよう、「ラムサール、ラムサール♪」と聞こえるでしょ。

そして今日。
テレビの画面に、この勝ち気なメロディに合わせて踊る男女の姿。
勿論、われらがホモ・サピエンスちゃんである。
ウェット・スーツに身を包む我らが同胞女サピエンスちゃんはラリって口走ったわけではなかろうが、大事なことを忘れていたようなのだ。
サピエンスちゃんたちの左脳からビンビン流れてくる歌はこうだったー

♪あいつは、あいつは、オニヒトデ
♪退治だ、やつらだ、無脊椎
♪グニャグニャ、ヘニャヘニャ、きもいやん

同胞サピエンスたちには邪魔に見えたようだ。
そこで、グリーン・ピースには格好の餌食なんめる女サピエンスちゃんのナチナチ言葉。

「こうやって駆除してると、自然が戻ってくるっていうかぁ...」

オニヒトデは自然にはいないもののようである。


非サピエンスちゃん系動物番組を作るTBSのサイトに、オニヒトデに関する次のような解説があった。事実を述べるのには直説法で書くのが当然で、この解説には自然大好き女サピエンスちゃんに確たる動機の裏付けを提供する表現が満載なのであーる。

【引 用:南方系のヒトデで、珊瑚礁に棲む。腕の数が11〜16本もあり、大型で全身に棘があって恐ろしげな姿をしている。体の下側の真ん中にある口から胃袋を 出し て消化液を分泌し、生きているサンゴを食べる。棘には毒があり、ヒトも刺されると危険である。魚のすみかや観光資源となるサンゴを食い荒らす上、ダイバー などが刺されて危険な目に遭う可能性もあるので、たいへん嫌われているヒトデである。大型巻貝のホラガイが天敵で、本種の毒棘もホラガイに対しては役立た ず、食べられてしまう 】

女サピエンスちゃん以下、自然をこよなく愛するサピエンスちゃんたちの過ちは次の点にあろうか。つまり、ホラ貝を放流してサピエンスの偉大なる智慧を自然界に顕示しなかったこと。
自分から罪をかぶったことである。

た ぶん、この後、大して血も流さんだろうオニヒトデ殿からその物言わぬ闇に突き刺さるエコロジカル・ウェイ・オブ・シンキンを抜き取ると、コエンザイム信 仰のメッカたる自宅に帰り、自然食を口一杯頬張るのである。たぶん、味はおいしくはない。せいぜい、星一つが精一杯だろうか。

そうそう、ちなみにヒトデは「スターフィッシュ」...

2005/10/18

ベーラ・アフマドゥーリナ「***」(1959)

ベーラ・アフマドゥーリナ

* * *

私の通り道には何年目だろうか
今もなお聞こえる、友たちの立ち去っていく足音が。
友たちのいつまでもぐずぐずして去ろうとしないその姿が
窓の外に見えるあの闇にはお誂えなのだ。

ほったらかしたままの友たちのこと、
彼らの家には音楽も歌もなく、
ただ、相も変わらず、ドガの娘たちが
青い羽を整え直している。

どうしたものか、どうしたものか、でも不安に目を覚ますことはない、
無防備なあなたたちがこんな夜中に。
裏切りを熱く秘めた思いが、
我が友たちよ、あなた方の目を曇らせているのだから。

おお、孤独よ、何とお前の性格のきついこと!
鉄製のコンパスを燦めかせ、
何と冷たくお前は円を描くことか、
当てにならぬ安請け合いなどには耳も貸さぬのだから。

さあ、私を呼び付けて勲章を授けるがいい!
お前の秘蔵っ子、お前によい子と言われて
慰めにしている私、お前の胸に身を寄せて
お前の青い冷たさで身を洗い清めるから。

忍び足で立たせておくれ、お前の森で、
そしたら、その緩慢な身振りの果てに
葉っぱを一枚見つけ、顔まで近付け、
そして孤児であることが至福なのだと感じて見せるから。

私にお前の蔵書の静寂を、
お前の演奏の厳粛な旋律をおくれ、
そうしたら、知恵のある私には忘れることが出来るから、
死んだ人たちのこと、あるいは、今もなお生きている人たちのことを

そうしたら、私は知恵と悲しみのことが分かるはず、
自分たちの秘められた意味を色んな物たちが私に打ち明けてくれるから。
自然は、私の両肩に寄り掛かり、
その子供じみた秘密を明かしてくれるから。

そしてその時、涙から、暗闇から
かつての卑しい蒙昧さから、
私の友たちの麗しき輪郭が
現れて、また溶けていく、再び。

1959

2005/10/16

Big Guy

to Se?orita Tanabe

救済がないと分かった後もなお記憶をもつ者は、九九を覚え終わった小学生のようなもの。はたまた、景山式計算ドリルを朝から晩まで子供と一緒に頑張る減点パパかも。

「熱狂」を引きずるというのはいかにも崇高さに欠けるといいますか、一種の才能ですかねぇ。あるいは、フレグマの崇高を選ぶ人がやはり多いのでしょうか。この「崇高さ」とやらを、ド・マン片手に考えているときふと気づいたことは、聖職者のタイプ。

常々、正教会教徒の熱狂性皆無が不思議で仕方がなかった。というのも、プロテスタント(テレビ宣教師を想像してね)のプロパガンディストと比較すると、どうもその毛色の違いに違和感を感じていた。というより、あの宣教師が僕のステレオタイプで、アメリカかどこかのゴスペルアワーなんかだと、みんな泣いちゃってる。

ただ、一つ興味深い話として、前ポンティフィスがその座に着く前日に、聖堂の十字架の前で身を投げ出して一晩中祈り続けたというの。献身ということだろうけど、でもやはりこれは意外だった。こっちのパパは百点パパかもしれない。

2005/10/15

『もみあげ団』(レンフィルム、1990年)

157cm。

これはロシアで最も有名であるはずの詩人(A.S.P.)の身長である。人は背の高さではない、ということの証であろうか。ともかく、今日はこの157センチメートルのA.S.P.像の周りを徘徊しようと思う。

「ペレストロイカ」の副産物と言い捨ててしまうには惜しい作品であるが、私はユーリィ・マーミン監督がその後に撮った作品を一つも見ていない(2005年10 月17日訂正:この作品の前後のいずれかは不明だが、『パリへの窓』というファンタジーを撮っているのを思い出した)。以前日本で開かれたレンフィルム・ フェスのプログラムに何があったかを知らぬ私にはただ想像するしかないが、仮にこの『もみあげ団』(原題は『Бакенбарды』)が上映されていたならば、全面的に盛り込まれたソヴィエト・グロテスクが日本で素直に受け入れられたとは考えにくい。グロテスクとは言ったが、この作品に関しては誉め言葉のつもりで、ただの娯楽映画ではないという意味だ。

ある日、ペテルブルク郊外の町に黒マントの紳士二人が岸辺に降り立つ。“もみあげ”をたくわえ、手にはステッキを握る彼らの目的を知る者はまだ誰もいない。 そこは解放された退廃的文化が蔓延する町であり、不明であるのは紳士たちの目的ばかりではない、また住民自らもその方向を喪失していた。ほどなくして、紳士たちの目指しているものが明らかになる。それは、ソヴィエト的価値観からの解放によっても疲弊するしかなかった文化を「プーシキン」によってすげ替えて復興しようというものであった。だが、そこに現れた「プーシキン」は実に詩人である以前にアジテーターであり、A.S.P.親衛隊を結成するばかりの文化主義的ファッショに他な らなかった。


無論、これは指導者=僭称者というロシアの伝統的テーマであると同時に、価値体系が常に崩壊を繰り返すフラットな場所として自らを表象し続ける元アンダーグラウンド系ロシア人思想家たちを背景から脅かしている強迫観念じみた考えでもある。そのため、このフラットな面を闊達に動きまわるために彼らが必要とするのは、皮肉にも、僭称の前提となる「仮面」に他ならず、これは映画『もみあげ団』において「プーシキン」や「レールモントフ」、はたまた「マヤコフスキー」という詩人の仮面として描かれる。そして、特徴的なのはこれだけではない。彼らの手に握られているステッキは道化のシンボルであり、これは古典古代にまで遡る神話的アイテムですらある(要するに、ファロスのことだ)。

以前、ここで引用した詩の一節(チュッチェフ「Silentum!」)に「考えは口に出したら偽りだ」という言葉があるが、これこそは詩人がその仮面を脱いだトリックスターとしての姿を露わにした瞬間と言えなくもないだろう。言葉を信じることの出来ない詩人、否むしろそれはやはり、アジテーターなのだろうか。

ちなみに「もみあげ団」は最後的に当局によって拘束され、そのアイデンティティであったもみあげを刈り取られ、解散させられる。だが、黄色いセーターにスキンヘッドという出で立ちで再びマヤコフスキーに同化し、そしてまた同じ町を行進するところで映画は終わる。

2005/10/14

『キン・ザ・ザ』という「記憶」


『キン・ザ・ザ』
最近ではDVDにまでなって、ずいぶん世の中も変わったものだと思う。個人的にはこの作品の想像力を超えたSFはまだ見ていない。

いわゆる「スタートレック」風のエンドレスものを除くと、ハリウッドのSFは二つに大別出来るのではないかと常々思っている。これは非常に単純である。つま り、人類の歴史がワン・サイクル閉じるという意味での「世の終わり」を契機にして考えると、そこには「終末前SF」と「終末後SF」があるのではないかと いうものだ。前者から見てみよう。

一番の例が『未知との遭遇』(『E.T.』でもいいが)である。異星人、これはサイクルの問題と関係な いかに見えるが、無関係どころではない。これは、オカルト性を排除した終末論の現代的焼き直しであって、終末の描き方が戦争重視(異星人襲来による最終戦争)へと流れずに、宥和へと重心を移動させたからそう見えるに過ぎない。未見だが、『宇宙戦争』は地球と地球外の二つの世界の間の「戦争」に他ならないし、そのプラットフォームには太古から世界を支配する原理としての未知なる力が前提となっている。それとの対決は歴史のサイクルが閉じる瞬間を描くということであるし、SF的な関心はもっぱらそこに向けられるだろう。そして、それは今まで知らずにいた自分たちを知悉する人類こそがテーマでもある。ということは、これは世界の記憶、あるいはアイデンティティを最終的に確認させることをめぐる物語でもあるということだ。さらに言えば、映画そのものが記憶確認、 より厳密には人類が何であったかということを知らせる媒体となるという意味できわめて教育的ですらある。ハリウッド教育映画。

これに対し、「終末後SF」には当然、記憶追認というものはない。アイデンティティはすでに確認され、サイクルは新たなものとなっているからだ。「自分のことなど とっくに分かり切っている自分」というのが今度は主人公になる。誰に教えられる必要もなく、記憶は自分のもので、捏造や簒奪などあり得ないし、自分からも求めはしない。つまり、一度閉じられた過去はもはや後戻りしてまで取り戻す必要のないものとなって主人公に預けられている。これはいかにも「過去を所有する」という意味に於いて主人(公)らしい。しかし、50年代のディックの原作を見れば分かるように、この確実なアイデンティティも再び解れ始める。ディックものが再び記憶=アイデンティティの危機をテーマにせざるを得ないのは、サイクルそのものが一度閉じてしまったからこそ生じる危機がやはり存在するからである。ここではオカルト性は希薄になる。「一回切り」であることを主旨とした終末論的物語伝統にはなかった、いわば、金輪際完全に断ち切ることの出来ない常態的危機がここからは始まることになる。

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ここからが今日の本題。

製作は85年だっただろうか、冒頭に紹介した『キン・ザ・ザ』は最初にゲオールギィ・ダネーリア監督が宇宙版ロビンソン・クルーソーを思いつき、脚本家のレゾ・ガブリアッゼと共同で書き上げたものだが、執筆だけに2年半を費やしたらしい。奇妙な映画だっただけにダネーリアというビッグネームがなかったならばまずは実現しなかったとどこかで監督本人が語っていた。

ソ 連・ロシアSFを全て見たわけではないので、次に言うことに説得力がないといわれて も仕方がない。ただ、『キン・ザ・ザ』だけをとれば、そこにある主題としての記憶への視点がずいぶん異なっていることに気づくのである。クルーソーが題材 であることからも分かるように、そこにいる主人公たち(マカロニを買いに出たエンジニアとバイオリンを届けに行こうとしていたグルジア人学生=地球人)自体が異星人であり、E.T.に他ならないのだ。しかも、彼らの持っているものといえば、ぶどう酢とバイオリン(本人たちは弾けない)とマッチ箱(このマッチが映画ではくせ者なのだが)だけで、これで戦争など起こしようがない。彼らの過去は自分から断ち切ろうとする以前に、呆然自失のあまり、振り返るまでもなく遠い記憶になってしまい、しかも、砂漠の惑星ではもはや自分が誰かということを証したてる意味すらない。つまり、歴史との決着やアイデンティティ危機の解決はどこにも顔を出さないのである。そこにはひたすら郷愁があり、しかもそれを上回るばかりの絶望しかない(だが、一見それほどの 悲壮感は漂っていないのが不気味でもある)。言い方を換えよう。記憶は無論問題ではあるのだが、それは「記憶に関する」映画という意味ではなく、この「映画そのものが記憶」であると言ったほうがよいかも知れない。その象徴として、記憶を消された状態で主人公の二人は無事地球に帰還し、地球の外へ放り出される直前の場所に戻るのだが、そこに通りかかった清掃車の点滅ランプを見た瞬間、彼らは宇宙で同じようなランプを頭に付けた上流階級異星人に向かってしていた卑屈なジェスチャーで挨拶をし、二人はお互いのことを思い出す。そしてエンディング。これは記憶の回復を意味するというよりも、映画そのものが記憶であったことを示しているし、それは映画が記憶になった瞬間だと言えるだろう。

ハリウッドの「記憶映画」は様々にモードを変えて今もなお反復されているようだが、最近では少しずつディック的テーマ群からの逸脱を始めているようにも思える。これについてはまた別の機会に書こうと思う。これはディック本人のテーマであるのでハリウッド映画に敷衍することは許されないかも知れないが、「歴史・時間のサイクルが一度閉じた後」という意味でいうならば、構わないだろう。アイデンティティが常に変化するものと考えるか、それとも恒常的であるとするかによって、このテーマへのアプローチはずいぶん異なるだろうが。

最後に。
ここ最近の日本映画の「記憶もの」はこれらいずれにも属さないと見てよいと思う。いずれも未見だが、テーマだ けを取れば、そこにあるのは「断ち切るべきであっても断ち切れない過去」という異質な記憶観があるのだろう。これには、正直言うと、ほとんど興味を感じな い。言葉は悪いが、「清算したい過去」があるので過去に戻るが、現実世界にはその清算しなければいけない相手はすでに存在しない...そして私はその人の ために生きていく等々...というテーマは少年少女趣味としか思えないし、それって、まるで過去を自分のものに出来るかのような前提でしか語ろうとしてい ないように見えるから...。記憶は頻繁に嘘をつくのだし。「あの1億、受け取ったかもしんない...」という某日本国元首相シカリ。
Кю!

ビー(地球人に向かって):ズボンを色で識別しない世の中なんぞに、目的なんかねえだろが




     キュー!



                                                                                
クー。