2007/06/23

誤認囃子


ヤフーのトップページには次のようなPRが並んでいる。

流行ビキニで視線くぎ付け
夏はハワイアンジュエリーで
キャミワンピースで涼しげに
足下かわいいビーチサンダル
サングラスでいい女度アップ
自宅で手軽にツルツルお肌
イオンスチーマーで美しく
あなたにもできる、ネイル術
夜は浴衣で雰囲気チェンジ
夏の恋、必勝お泊まりデート


ほほぉー、である。
ソフトバンクは「泥濘の堤防」とでも呼ぶべきか。

そもそも「PR」とは、文字通り”パブリック・リレーションズ”のことである"はずだ"。
しかれば、日本でもゲッペルス・システム満載の大政翼賛的リレーションがこのよなPR企業によって作られている。
この手の公共の「リレーションズ」が、捏造とは言わないが、それでも、虚構間近に近いものとして作られていることは間違いない。

誰の口から上に列挙したような娑婆娑婆で禍々しい言葉が吐き出されるのか。
例えば、「クールビズ」に絡めたエゴイスティックなエコ広告(というか、エコロジカルなエゴ広告)も同列だ。
今更、誰が電気の消し忘れを広告にするセンスを持ち合わせていようか。
こんなこと、ダメオヤジが鬼婆にケツを捻られたすえに、渋々自分のこれまたダメ息子に良い格好を見せてるようなものだ。

PR会社のことを日本では何故か”広告代理店”と呼ぶ習わしがあるが、しかし、何の代理なのか。
ここで川柳一句、

「内裏様、誰のダイリと問われれば、肝入り腑抜けの代理様」

専らのところ、平日はエコを訴えて、憔悴の休日はパチンコに精を出す吾人の代理なのだろう。
やっぱり、エゴロジーである。

2007/06/22

無差別撤廃




将来、男女均等社会というか、それ以上に、男女無差別社会が訪れるのもそう遠くない、と想像することに大して喜びも悲しみも感じないにせよ、物事というか、モノを混同するのが嫌いという人は多いし、それを見ていて違和感を抱くことも少なくない。例えば、豚肉と牛肉をミンスして混ぜ合わせたものを「合い挽き」といい、また、男と女のデートも発音上は同じく「逢い引き」という。一つになることが分かっている分には違和感はない。しかし、この二つを引き合わせる訳にはいかないマッチョの世界では「男」は「男」であって、「牛」は「牛」である。同じ餌を食べていても、豚小屋の臭いは牛小屋の臭いとは違うし、その肉の味が違うのも確かだろう。グルマンの跋扈する世の中に、どれだけの潜在的味覚障害者がいるかは知るよしもないが、ミンスして逢い引きさせた肉弾二銃士を誰が顧みるのかには興味ある。コープはさっそくこの単性肉を装った「逢い引き銃士たち」を商品棚から撤去。消費者という圧力こそがバネの生協にとっては、当然の措置だ。警察も黙ってはいない。ただ、これは不正競争を防止し、嘘をついてはならぬというお題目の上で動いている。

しかし、そもそも、動物には言葉が具わっていない。自分が牛だの豚だのと自己申請することも出来なければ、生物学上牛でも豚でも、人の見た目が牛豚であれば、牛豚と呼ばれてしまう。これをもって、人間は冷酷だとは言わないが、男女の性差にしても同じことが適用されるのをわれわれは知っているし、未だに「性同一性障害」というおぞましい医学用語をレッテルに持つ人が「社会的」に抵抗する姿も目にする。彼らへの眼差しは、この「逢い引き銃士」として偽装ミンチを駆逐する者たちの視線と交差しているとも見える。全くもって牽強付会だが、今度の事件を逆に同性の「逢い引き」励行だととれば、少しは気分は晴れるのか。

2007/06/19

ドクトル・メフィスト


ほとんど20年ぶりに歯医者の門を叩く。
この世から殲滅されても少しも惜しくない歯科医院が
家の近所で最近増殖を繰り返し、ずいぶん前から僕の大事な「親知らず」を狙っていた。
初診の今日は、問診ではっきりこう答えてやったー「歯医者なんか絶滅すればいいんですよねぇ〜」。
すると、奥には僕とさほど年の変わらない「先生」の影がチラッと見えたが、その時彼が苦笑いしていたかどうかは、あの不敵な白マスクに隠れて分からなかった。

以前、呼吸不全でバスを飛び降り、タクシーに乗って近くの総合病院に向かったことがあった。
ただ、その時は運悪く、急患を診てくれる医師がおらずに、たらい回しにされた。
別の病院を紹介してもらった都合、そちらに向かわざるを得なくなり、やむなくまたタクシーに飛び乗る。
でも、気持ちは飛び乗るという言葉とはまったく違い、実際のところは、ひどく懐具合が心許なかったため、呼吸のことなどすっかり忘れ、タクシー代と診療代のことで頭が一杯に。
それでも、結局は「まな板の鯉」は鯉である。というより、懐具合からすれば、せいぜい僕などフナ程度である。
いつもこういう状況が僕を取り巻くと、自分のことを「フナ」だなんだといって卑下しながら、死に神さんに睨まれないようにしているのだ。
いくら喋った所で、捲し立てた所で、看護婦を笑わせた所で、何にも変わらないんだが...
つまり、不安な時は饒舌になるのが人の性なのだろう。今日も同じことを口走っていた。

ちなみに、今日は偶然にもドラマティックな舞台設定だった。
「ファウスト」の第五幕で、これから博士が昇天する直前のところを読んでいたところだった。
勿論、僕にとってメフィストは初対面の歯科医。小さな頃から死ぬほど恐れていたデンティスト=メフィスト。
そして、数十分後。右奥歯の親知らずか子知らずかの歯の抜歯準備開始。
このあたりになるともう現実感が圧倒的で、「ファウスト」がオーヴァーラップすることもなかったが、
それでも、歯の根っこだけは違った。
すんなりと抜けるのかと思いきや、それはまるで性懲りもない魂のように、肉を?んで放そうとしない。
その根っこは文字通り、「豚の蹄」のように三叉に分かれ、歯肉に食い込み、しがみついていたのである。
ファウスト博士には天使たち・マリアたちがついてくれてたが、僕についているのはせいぜい国民健康保険。

ファウストも「3割負担」じゃ昇天するまい。

2007/05/04

”世界を征服するだがや”



どんな受精卵細胞でも、最初に成長して出来上がるのは”口腔と肛門を繋ぐ管”であることは知られている。

それぞれインプット・アウトプットという機能に応じた筋肉をもち、インプット部(グルメ部)には食を楽しいものにするべく、否、より正確には、有毒かどうかを最低限見極める嗅覚器官がその真上には付いているが、アウトプット部(ダッシュボード部)には付いていない。ニコちゃん大王など知っている人も少ないだろうが、ニコちゃん星人は例外である。なんか、このクラブ活動のような響きをもつ器官には、オヤジギャグ風に言えば、大”活躍”をする”括約”筋があり、結構思う通りにも動かせる。余り動かしすぎると第4サティアンでヨガをやっているような気分になり、空中浮遊出来る錯覚に陥るが、そんなことはどうでもよい。

口腔も肛門も、元々は同じDNAが絡んでいる。
局所的に必要な遺伝情報が選び出されたからここには鼻が付かなかっただけの話で、もしこの遺伝子コピーにかかっている制限が緩和されれば、原理上、鼻だって付けられる。アウトプット部に待望の”鼻の新入生部員”入部である。

だから、と、ずいぶん強引な論理だが、最近話題の著作権違反というのはこの”新入部員”の入部のことであり、この違反(違法コピー)が簡単になった今の世の中でその国際的取り締まり強化を訴える”先進国”にとって”鼻の新入部員”は”目の上の瘤”ならぬ、”ケツの上の鼻”なのである。”先進国”と言ったが、何も進んでいるわけではない。ただ単に、市場原理でコピー制限をかけているだけの話で、知的財産原理主義者が出てきたら、それこそ「文字」にも制限がかかるはずで、これなら”先進性”を叫んでも私は文句は言わないだろう。

”ヒューマンネイチャー”という古くて新しい言葉を思い出そう。日本語に訳せば”さが(性)”とでもなろうが、どうしても変えられない、変えようものなら精神が恐慌を起こしかねないことを指す言葉だ。肛門の近くに出来た”風邪のハナ”だって、”楽しければいいジャ〜ン”といってしまえばそれまで。本来のネイチャーならば、これは”遺伝子異常”だが、ヒューマンになると”知的財産権侵害”であり、また、人間の性を裏にとった行為は”詐欺”ということになる。

しかし、この侵害にせよ、詐欺行為にせよ、線引きは難しい。
例えば、中世までの文学と近代以降のそれとの大きな違いは、口承性の度合いの相異と作家の特定可能性だとでも言えようが、それにしたところで、「文字」という人類の一大発明品にまでこのパースペクティヴを適用すると、漢字を使っているわれわれがこの知的財産を無料配布された上に、日々無料で使っていることを考えれば、すでにそれが知的財産だなんてことを忖度すらしない。だから、精々、問題になるとしても、正しい書き順とかくらいで、それ以上のことで文句は言われない。

空想がいささか過剰だが、個々の漢字の発明者がその所有権を主張しようものなら、一文字毎に登録商標がついて読みにくくて仕方がない。ソフトが市場化する時代だからこそ、この”コウモンのハナ”ももぎ取られるわけだ。

ところで、私は中国が好きだ。ヘドが出るほど好きだ。
コピーがいけないことって分かっているけど、コピーしていないって言い張るあの勇気が好きだ。
みんなでミッキー・チナ・マウスを、そしてミッキー・チナ・プーを楽しむことが望まれる。なぜなら、あれがミッキーでもプーでもないことは明らかだからだ。チナズム万歳。

追記
オーソン・ウェルズの『フェイク』という映画での1シーンを思い出した。
エルミアというユダヤ系ハンガリー人贋作画家が「ピカソ」をカメラの前で書き上げ、パイプのライターで燃やすシーンだ。
そして、彼のモットーは「サインは偽造しないこと」。
だから、彼の作品が流通可能であるその前提は共犯者がいるということであり、これが彼の逃げ道。

チナストも、だから、国際メディアの前で非難に晒される前に、チナニー・ランドを全焼させてしまえばいい。
あと、観光客は共犯者にならないために、どれだけ楽しんだとしても、「ケッ、つまんねえ」と言ってみること。

2007/02/07

今日の煽柳


今日の川流れガッパ
「柳の枝をひょいっと引けば、散切りカツラがずれ落ちる」

民主党の肩を持つ気などこれっぽっちもないが、こんなズラ大臣言うことをマジに受け止める方が馬鹿を見るし、前言撤回などさせてはならない。そもそも、「大臣」というのは王に服従する家臣団の長のことを意味する。しかも、われわれが選んだわけでもないのであれば、その人間の発言をわざわざ訂正させるようなことをしても意味が無く、不毛である。直接、彼の言葉を今の皇太子一家に結びつけて考えればよい。大きなお世話、と言われるだけだ。早い話が、こんな田舎者に向けてここぞとばかりに非難の矢を放ったところで、国会審議に貴重な時間を費やす方だけでこれまた馬鹿げている。詰問などせずに、糊が乾いてズレ落ちたカツラにこちらからわざわざ糊など買ってきて渡すような真似などせず、そのままハゲチョビンでいさせればいい。そうしたら、世間じゃこんな噂が流れる:

「あいつも禿ときてるから、きっと、アイツは絶倫だぜ。ははは、産ませる機械ってか」

2007/01/26

改名パピヨンチョコレート


「蛙ゲロチョコ」というのがある。
といってもこれは、とある旧大英帝国コメディの中でのネタ。知っている人には何のことだかすぐ分かるはず。
でもって、旧大日本帝国では口の中でとろけるアンバー風鱗翅類チョコレート(パピヨン・チョコ=略してパピチョ)が流行のようである。食べた人には何のことだがすぐ分かるはず。

このパピヨンチョコに「害は無い」といってのけたことを今更ここでどうのこうの言っても仕方なく、このパピヨンをヒョイと抜き出して金よこせと恐喝して地に落ちてしまうのも情けない。だから、皆さん、ちとでも思いついたらおよしなさい、そんなことは。またとない「当たりくじ」を引いたと思っておけばよい。

どうせ、こんな企業はいずれ、甘露飴の如く輝く慈悲深きわれわれの記憶の中で「蛾」のように硬直してしまうのだから。

われわれの身体は驚異に満ちている蛾、目に見えるものには案外疎い。
自分の顔をいくら洗ったとしても、微生物・細菌だらけだ蛾、美人を見るとそんなことも忘れて、束の間呆然となる。
自分についているものは、ひと先ず「無害」だというわけだ蛾、これは大きな間違いである。

話は全然違う蛾、全体主義というのはこの完全処理の不可能な細菌を取り除こうとするオーバカな政治体制であって、基盤そのものからして、細菌がある程度くっついてるからこそ保湿可能な顔のようなもので、そこにファンデーションを塗りたくろうってんだから、もっぱら体制不全の上に成り立っている。

今どきの日本をトータルに結束するものはない蛾、事ある毎に国旗掲揚・国歌斉唱というのもいい蛾、それ蛾「ヤダ」という連中を捕まえて減俸だとか免職とかいうのは芸蛾ない。どうせならば、「せめて鼻歌でも歌っておくれ」と頼み込むの蛾旧大日本帝国臣民の筋である。多分、唱いたくない連中は「千代に〜♪八千代に〜♪」蛾気に入らないのだろうから、「ニノニ〜♪ナニノニ〜♪」とホノグラムを流してやる。格好のよいものではない蛾、お経のようで和むにちがいない。ちなみに、新しいロシアじゃ、国歌の歌詞も新しいから誰も覚えてない。だから、国民規模のホノグラムみたいなものだ(モスクワの町には看板があるー「みんなで国歌を覚えましょう」)。

人間は「勘違い」するものである。企業はこの人間の塊で、昆虫みたいな顔をしていても人間には似ていない。そして、この勘違いを何度も繰り返しても、「勘違いどころじゃない!」と騒ぎ立てるのは人間の方で、この人間相手の商売が出来ない昆虫集団はいずれは全滅するのである。ただの「間違い」となり、これが嵩じてはもはや世間では「気違い」ということになるからだ。

外野からは「こんなの間違っている、おかしい、ちがう、ちがう!」とマス人間的正義の声が叫び続ける。でも、これにも「が」が混入している。人間の顔をした昆虫の鳴き声が紛れ込んで。

2006/10/28

旧世界胃酸


今日は久し振りに書いてみる。
友人たちからの手紙への返答を差し置いても、だ。
もし、最近手紙を書いてくれた人がこれを読んでいるならば、申し訳ないという他ない。
いずれ出すつもりなのでご寛恕。

さて、今日は「遺産」について一言。
それには「世界遺産」が”もって来い”である。
このような新語を誰が考えたかははっきりしている。
旅行業者とグルになった学者たちか、学者たちとグルになった旅行業者のいずれかだ。
つまり、彼らだ。
私は以前からこの「遺産登録」を「唾付け行為」と呼んでいる。
といっても、こんなことをまともに人に話したことはない。
しかし、例えば、バーミヤン石窟がタリバンに爆破される映像を見て、どれだけの人が「遺産」のことに考えをめぐらせたか。
仏教の遺跡は他の遺跡とは格が違う。
というのも、仏教徒にとってみれば、そこには本来世俗的執着があってはならないはずで、あの石窟が崩れて無くなっても、諸行無常であるかぎり、仏教徒には痛くもかゆくもないはずだからだ。
こういうと、他の宗教はどうかという話になるが、これは、塵芥になってもならなくてもこの世での価値に頓着しないのが仏教だ、という前提でのお話し。だから、あれを残すことに血眼になるのは旅行業者か学者たちくらいである。
もし、衆生のうちから「残してくれ」という声が上がるのだとすれば、それは無論、潜在的観光客に相違ない。

だが、個人的には奈良の仏閣が好きでたまらない。だから、仏教徒にはなれない。
幼い頃、遠足でもないのに一時間の電車を乗り継いで、画板と画用紙片手に独りで絵を描きに行っていた。
感傷ではなく、あれはとにかく美しいのだ。

今残る遺跡や町を遺産に残すのに、人は死んでいく。
「世界遺産」は、芸術学的見地からして非常に正当な、そして、観光経済的見地からして至って効率的な運動である。

関係ない話だが、この夏、私はペテルブルクに二日間滞在した。
覚えていることと言えば、無論遺産のことではなく、十五年ぶりに再会した友人と中華料理店で大酒を食らい、酩酊状態で、彼が社長を務める日本文学関連の出版社へ彼の奥さんに会いに行き、その後、あるいはその前であったかはもう定かではないが、新調したばかりのズボンをゲロでドロンドロンにしたこと。そして、一緒に同伴していた女の子には愛想を尽かされたこと。
そこに私の見たのは、活発に消化を助けてくれた後の胃酸ばかり。
こっちの方がよほど珍しいので、今度観光用に携帯するのなら胃カメラだろうか。

ちなみに、私がその町で見たのは、空き瓶を拾い集める老女たちばかり。
これは無論、感傷のかさぶたにすぎない。

2006/10/01

人は給食のために生きるにあらず


例えば、実存をめぐる不条理(自分の生の意味を推し量ろうとして、結局死の意味をもそれに対置させねばならず、結局は問いそのものが変質してしまい、常に袋小路に陥るしかない「生の問いかけ」がもつ条理)を、「生んでくれと頼んだ覚えはない」という格好の非論理をもって親にすごむ子供は後を絶たず、その生命力はゴキブリのそれに等しい。自らの実存を楯にする現代人だが、子供でいるうちはまだその幼稚な論理を玩具にして遊んではいられるが、成人して烏色の硬い羽を生やしてしまうと、自活のために餌を求めて地を這い回らねばならない。だから、普通は早々に上のような幼虫的論理は卒業するものである。

今回は別段、生命の尊さを論じようと思って書いているのではない。ある問題の実態について知りたいのだ。
それは、給食代を払わないガーディアンたちのことだ。
この報道の前面には「支払い拒否」ばかりが出ていて、果たして拒否しているならば、その子息たちに弁当を持たせているのかどうか....

いずれにせよ、現時点ではこれだけで言語道断とは言わないでおくが、「拒否」の「論理」は多分、「NHK受信料」とかの問題と同じなのだろう。

「水道を引いてくれと頼んだ覚えはない」とは誰も言わない。
しかし、支払いを拒否し、その肩代わりを教師のポケットマネーに頼るようなガーディアンをもつ子供は、これをどう見ているのだろう? 
きっと同じような、でも少し視線を変えた論理が飛び出すはずだー「日の丸弁当ばっか作ってくれって言った覚えはない」

2006/09/29

パツキン


金髪議員...、どうだっていい話、ではある。
下品だが、日本人は金髪に弱い。それと、ピンク色にも弱い。
色町に行けば、この二色がオンパレードなのは理由がない訳じゃない。
この色にはどうしても燃えてしまうのである。
しかし、国会ではいけないということで、ノンという。
だが、黄金というのは富の象徴、つまり、豊かさの証で、何も最初から悪い色ではない。
それとも、駄目だって理由が、子供が真似するってことなのだろうか?
もし、そうだ、というのなら大間違いである。
代議士の真似をすることのほうが、今の世間では人徳に反していることで、
そんな連中の真似をしてるといって、精々仲間からからかわれるのがオチというもの。
したがって、中高生の茶髪・金髪防止策として、是非とも代議士連には率先して毛を虹色のブリーチに染めてもらわねばならない。

どうせ色に拘るのなら、ついでに国連平和維持軍は玉虫色にしてみよう。
ちなみに、自動小銃の配色はピンクでお願い。

2006/09/28

「向うが先に悪事を仕掛けてきたことゆえ...」(メネラーオス)


ささ、皆さん集合、本日より首相就任会見の揚げ足取りの始まり。

いかにも、御仁、先生、諸君、紳士淑女に皆の衆、「思います」というのは世の常、人の常ではござりませぬか。
自信の在る無きかかわらず、「思います」というのであれば、いやそれまでのこと。その御方はそう「思っている」のですから。
「しっかり」という物言いも分かってあげぬとは、それはいかにも不憫というもの。
精一杯の言葉ゆえ、美し・いつくしき「シカリ」との言の葉ゆえ、慈愛をもて見守ろうではござりませぬか。
それでも駄目だというのであらば、実験をしてみても良かろうもの。

すべての「思います」を「存じます」と入れ替え、はたまた、あんこたぷりの「御座候」でも構わない。
あるいは、ペダンチークな調子に替えて、「...だ」「...ならない」「...にしくはなし」「...あれかし」としてもよい。
より奇天烈さがお好みとあれば、「ぶら下がり」の時、画面に毎回映る首相用に「鼻毛・鉢巻き・腹巻き・ステテコ」半透明スクリーンをかぶせて、語尾には「...ナァのだ」「...でイーイのだ」という声を流してみる。そして「シンゾウに毛が生えた」という1秒ごとに点滅する効果的テロップ。

きっとこれで、にわか保守派は震え上がること間違いなしナァーのだ。

2006/09/27

禍々しい日本語


「美しい日本語」促進計画案に関する追記
ー「日本語」科目のビデオ教材には駆除・殲滅すべき禍々しい似而非日本語のサンプルとして「子亀」アンド「親亀」の大阪弁。これは喧嘩のときも、決して相手に殴りかかることなく、願わくば「いつくしき」ヤマテコトバで相手を痛罵するためである。

エスティック・モノノフ


近代教育における「非国語」が国家戦略上位置づけられるのはおそらく19世紀後半あたりのことで、いわゆるそれまでの伝統的「古典教養」がもつ学問的無用性から脱却して、いかにも合理的な視点から導入されることになるのがヨーロッパ近代語である。外国語教育については、本来それが近代国家の産物であるということと国家経済の効率性を結びつけずに考えることは出来ない。例えば、外国語オタクというのはどの時代にも存在するが、彼らが非効率な存在種、つまり生産性に乏しい人種であることから考えても分かるとおり、金持ちであるためしはおよそなく、国家にとっては多分にその存在さえも眼中にはないものである。いかにも、国家にとって国語も含めていかなる言語なども本来は道具の一つに過ぎず、したがって、その普及力とヘゲモニー維持において秀でている言語はとりわけ崇拝されるべき存在なのである。日本語を(そして英語も)まともに喋れない日本人と流ちょうな英語も日本語も話せる日系人とを比べてどちらが道具として使えるかと言えば、当然後者であって、海外において国家を代表する企業が欲しがるのはまさしくそういった道具である。

ところで、「ゆとり教育」ならぬ「さとり教育」という蓮池を出たかと思えば、今度はエスティックブルーのもののふ(Mononoff, Minister of Gaya Sciencia)が新たな具足(=英語必修化)をかなぐり捨ててもよいと言い出した。この政権は美学の祭でもやろうというのだ。あるいは、この先には全世界日本化計画でも推進する気なのだろうか。私が提案したいのは次の点だ。
 ー先ず、国語の古典語教育はこの際止めること。その代わり、「日本語」科目を導入し、作文(表現力・思考力)・リスニング(集中力と忍耐力)・講読(分析力)の三つに下位区分して週10時間の授業を行うこと。こうすれば、どのアジア諸国にも負けない美しい国語を話せるようになる。
 ー当然ながら、ここにはドロップアウトする学生も出るであろうから、その救助策として彼らには、「美しい日本語」を話す東京山の手地域の高級住宅地でホームステイ(事実上の家政婦)を義務づける。「美しい日本」の私たちのためなのだから、決して「箱根より先」に彼らを送り出してはいけない。これは場合によって、ニート対策にも一役買うだろう。
 ー日本国民は五年に一度は「美しい日本語」能力試験を受験すること。不合格者には社会奉仕活動に従事させるか、月給20%分の罰金を科すこと。この収益は年金を賄う財源となり、国庫を潤すことが出来る。

以上

2006/09/26

最後のビールが切れた

この三ヶ月、私は何も書かなかった。何故か。
理由は特にない。だが、今日書くに気になったのは他でもない、
「美しい国」の到来だからだ。

左翼はほどよく国を恨む。と同時に、右翼は国をほどよく誉め殺す。
「両極相通じる」というが、どちらも理性を忘れがちなことをわれわれは忘れていないか。

例えば、中世を論じるに当たってそれを保護しようとするのは、些か現実離れしていることを忘れるなかれ。
また同時に、現代を論じるに当たってそれを非難するのも同じく過去を過ぎた物憂い目で見ていることもお忘れなされるな。

リアルな「ものの見方」はどちらに対しても冷酷である。
中世は、民衆の首根っこを掴まれていなかっただけ自由だ、というのであれば、さもありなん。
だが、そこに見るのはどれも生きるか死ぬかの徒党の群である。The YAKUZA。
誉めるわけにはいかないが、これは伝統ある群像で、決して消えたりしない。

近代になれば、「金、Yokose」と言うのがヤクザなら、「...に金をやれ」というのが組衆(例えば、労働組合、教会)。
多分、ここに違いを見出そうとしないのは、捻くれているだけじゃなくて、正直じゃないからであろう(それとも、愛がない?)。
崇高な気分になるためなら教会・神社があるので行ってみればいい。
金が欲しい奴は、アコギなアコムなど行かず、働けばいい。

美しい国。ああ、美しい国。
生活保護を受けられる、美しい国。
ああ、今日は山口県が誇りでまみれる。

2006/06/12

死よ、踊れ!

今日のどうでもいいニュース
「18センチのタランチュラ」を主婦が捕獲、お手柄である。
この後、私の頭は妄想に支配される。よくあることだ。

娘ー「お父さん、帰ってくるの遅いねぇ」
妻ー「どうせまたどこかで油でも売ってるんでしょ、ちょっと景気がよくなったからって、すぐにこれだから、ほんとにもう...」

ーそして、二日後。寝室の壁の前。
妻ー「あらやだ、こんな所にシミがついてる」
と、その時動き出すシミ。
いや、それはタランチュラ。アンド・ゲット。
娘ー「お父さん、今日も遅いの?」
妻ー「さあ、知らない。昨日も寝てるうちに帰ってきたと思ったら、ゴソゴソいってから何も言わずに会社に行ったみたい」
娘ー「音なんてしたっけ?」
妻ー「したわよ、確か...」

ーさらに三日後。
妻ー「どうしよう、携帯に電話してもつながらない...」
娘ー「昨日も帰ってきた気配ないわよ」
妻ー「...」
妻は先日の壁をじっと見つめている。まさか...

2006/05/17

Ten-hut!!!

マクドナルドでBig Macを注文する奴を見ると、西部警察のグラサン渡哲也を思い出す。
その後、コーンパイプ。
そして、"Made in occupied Japan"
たわいない戦後、
そう、Big Macは未だに食えない。

2006/05/15

ディラン・トーマス「すべてのありとあらゆる」


I
ありとあらゆるすべての乾く世界が迫り上がる、
氷の舞台、硬直の大洋、
すべてが油から、溶岩の生け簀から、迫り出す
春の都市、その操りの華は、
灰燼の町と化する地中で、
火ぐるまに身をまかせてくるりと回る

どういうことなのか、我が肉にして剥き出しの友よ、
海の乳房、腺に彩られた東雲、
蛆の潜り込む、杭入れと休閑期の頭皮は
ありとあらゆるすべての乾く世界は、むくろの恋人よ、
原罪の如く痩せこけてしまった泡吹く髄よ、
肉体のすべてよ、乾きの世界は梃子で持ち上がる

II
懼れるでない、目覚めんとする世界を、我が死すべき者よ、
懼れるでない、味気ない合成血液を、
肋骨金属に収まった心臓もだ
懼れるでない、まぐわいの踏み板や種なしの臼碾きを、
引き金や大鎌、婚礼のナイフを、
恋人が酷い仕打ちに打ち付けてくる火打ち石もだ

我が肉たる男よ、砕かれた顎骨よ、
さあ知るがいい、肉体の獄門と悪徳を
そして、大鎌の目をした放蕩児を捕らえ置く篭のことを
知るがいい、おお我が骨よ、骨付き肉の梃子を、
懼れるでない、声を裏返らせて、
追い詰められた恋人に顔を向けさせるネジのことなど

III
ありとあらゆるすべての乾く世界はまぐわう、
亡霊女は亡霊男とともに、感染病の男は
未だ形知らぬ自らの諸人を宿す子宮とともに
すべてに形を与える胞衣と授乳、
機械仕掛けの肉がする我が肉への愛撫は、
これら世界にある死の円環をなだめつける

華で飾れ、飾れよ、諸人の融解を、
おお、絶頂の光よ、まぐわいし蕾を、
肉のまぼろしに視る焔を飾れ
海より迸る出る油を、
穴と墓石、真鍮の血を、
飾るのだ、飾れ、すべてのありとあらゆるものを

2006/05/10

今日の罪状自由詩「換骨奪胎」


今日、放送局に骨が届いた。
何の骨かは知んねーが、とにかく届いたよ、届いた。
抗議文と一緒に届けば、それは「悪質なイタズラ」。
そうでなくても、やっぱり悪戯。
でも、悪質なほど良質なのが「徒=いたずら」。

アニメの録画がしたかったのだそうな。
それを卓球が邪魔したのだそうな。
それを抗議したいのだそうな。
それには骨が必要だったのだそうな。
本人の骨ではなさそうだ。

さあ、ここで変な響きの四字熟語を思い出せ、思い出そう...
そして、警察と連帯すべきでない放送局の対応を最後に考えよ、考えよう...
...今後、スポーツ中継延長の時には日本国瘋癲アニメ卿何某に
その旨楔形文字にて打電せし骨を送り進ぜようぞ

「ホンシツ ハ カンコツタツタイ ノ ヒ ニテ アシカラス」

2006/05/07

イヴァン・ブーニン「軽い吐息」


墓地には、撒かれてから日の浅い土の上に新参の樫の十字架ががっしりと、重々しく、風化など知らぬ姿で立つ。

四月、どんよりとした日々。だだっ広い郡立墓地の墓碑は遠く離れたところからでも葉をつけぬ木々の間を通して見え、さめざめとした風が十字架の台座に置かれた陶製の花輪を唸らせている。

その十字架はというと、ぷっくりと隆起した陶製の肖像板を嵌め込み、その肖像板には嬉々とした、ぞっとするほど生き生きした眼の、女学生の写真が入っていた。

オーリャ・メシェールスカヤである。

少女時代の彼女は、女学生が着る褐色のコートの群れの中にあっては、これといって目立つ方ではなかった。彼女について語ることがあるとすれば、良家の出で、裕福、それに幸せな女の子たちのうちの一人だということ、優秀だが悪戯好きで、担任の女教師の言うことにはてんでお構いなしだったということぐらいだろうか。その後、彼女は蕾を開き始めるが、数日どころか、数時間単位の成長を見せる。ほっそりとしたウェストに、すらっとした脚の彼女は十四歳にしてすでに、胸そしてあらゆるフォルムが見事に描き出され、その魅力たるやこれまで一度として人間の言葉で言い表されたことのないほどのものであった。十五になる頃の彼女はすでに美少女という評判を得る。一部の友人たちはどれほど念入りに髪を結い、清潔で、控えめな身のこなしに気を配ったことだろうか! なのに、彼女ときたら怖いもの知らずなのだ、手についたインクの汚れも、恥じらいで真っ赤になった顔も、振り乱した髪も、競走で転倒した時に捲り上がる膝のことなどもお構いなしなのだ。いかなる配慮も努力もしない彼女にいつしか訪れたのは、ここ二年間で女学校全体でも彼女を一際目立たせるもの全てだったのだ。それは艶やかさ、堂々さ、軽やかさ、清澄な眼光…誰も舞踏会ではオーリャ・メシェールスカヤみたく踊れなかったし、誰も彼女のようには馬を乗りこなせなかったし、彼女ほど舞踏会でちやほやされる者もいなかったし、それに何故だか分からないが、彼女ほど後輩たちから憧れを抱かれた者はいなかった。いつしか彼女は一端の娘となり、いつしか女学校内での彼女の名声は確固たるものとなったが、そうなるともはや彼女は軽薄で、自分を熱狂するファンなしでは生きられないのではないかとか、男子校生シェンシンが彼女にゾッコンで、彼女もどうやら彼のことが好きらしいが、彼に対する態度があまりにあやふやだったばかりに彼は自殺を図った云々…という流言まで飛び交った。

学生時代最後の冬のこと、オーリャ・メシェールスカヤは女学校内での話題に狂喜せんばかりだった。その冬は雪が多く、太陽に恵まれ、厳寒で、雪に覆われた女学校中庭の高いエゾマツ林の向こう側に早々落ちていく太陽は、明日の日も相変わらずの好天で、光に溢れた冬将軍と太陽を、それにソボール通りの散歩、市立公園での橇遊び、薔薇色に染まる夕べ、音楽会そしてその中ではオーリャ・メシェールスカヤが一番無邪気で幸せに見える、四方八方に滑る橇遊びの人混みを約束していた。そんなある日の長い休憩時間、彼女は講堂内を金切り声ではしゃぎながら追っかけてくる一年生たちから旋風の如く身をかわしていたところ、突如校長からの呼び出しを受けた。走り回っていた足をピタッと止めた彼女は深呼吸を一つだけすると、すでに慣れた女性の素早い身ごなしで髪型を整え、エプロンの両角を肩まで引き寄せると、輝かせた眼で階上へと駆け上がっていった。年の割には若く見えるが、灰を被ったような髪の女校長が編物を手にして書斎机の向こうで静かに腰かけていて、その頭上には皇帝の肖像画が掛かっている。

「ごきげんいかが、マドモワゼル・メシェールスカヤ−」校長は編物から目を上げずにフランス語でこう言った。「残念ですが、わたくしがあなたの素行についてお話しするのにわざわざここに呼び出すのはこれが初めてじゃありませんよねぇ。」

「はい、マダム。」メシェールスカヤは机に歩み寄り、校長の方にじっと目を凝らしたが、顔に別段表情を出さずにこう答えると、彼女だけが出来る軽やかさと優雅さで腰を下ろした。

「私が注意したところであなたは上の空でしょうね、残念ですが、これだけは確信してます。」こう言って校長は糸を引っ張り、ニスのかかった床の上で毛糸の玉がころりと転がると、それに好奇の視線を送ったメシェールスカヤは、またそこで視線を上げた。「二度としません、声を張り上げたり喋ったりいたしません。」彼女はこう言うのだった。

メシェールスカヤには、厳寒なモロースの日に見事なオランダ風ペチカの温もりと書斎机のスズランの爽快さをすっかり吸い込んだこの異常なほど清潔で広々とした校長室が大のお気に入りだった。どこかの煌びやかなホールの真ん中に全身像で描かれた若き皇帝に目を向けてから、乳白色で、丁寧にウェーブをかけた校長の髪の均等な分け目を見ると、何かを待ち受けるかのように押し黙った。

「あなたはもう子供じゃないんです。」意味深長にこういった校長は内心苛々し始めていた。

「はい、マダム。」素っ気なく、ほとんど楽しんでいるかのようにメシェールスカヤは応えた。

「といっても、大人というわけでもないんです。」校長はさらに意味深長にこう言うと、そのくすんでいた顔はほんのりと赤みを帯び始めた。「第一、その髪型はどういう事です? それは大人の女性がする髪型です!」

「マダム、私の髪質が良いのは私の責任ではありませんわ。」メシェールスカヤはこう答えると、きれいに整った自分の頭を両の手で危うく触れそうになった。

「なんとまあ、あなたは悪くないと言うんですか!」校長は言った。「あなたはその髪型に責任もなければ、その高価な櫛にも責任はないんですね、一足二十ルーブルもするパンプスでご両親に散財させていたとしても! でも、もう一度言いますが、あなたはまだ自分が一介のの女学生に過ぎないのだということすっかり見落としているのですよ…」

この時、メシェールスカヤは率直さを失わず、怯むこともなく突然、厳めしく校長の言葉を遮った。

「お言葉ですが、マダム、それは誤解かと思います。私は女です。この責任は誰にあるかご存知ですか? うちの父の友人で隣人、つまり、校長先生のご兄弟でもあるアレクセイ・ミハイロヴィッチ・マリューチンです。あれは去年の夏、田舎に行った時のこと…」

この会話の一ヶ月後、オーリャ・メシェールスカヤが属していた社会にはこれぽっちも共通点のない、見た目の野暮ったい平民風情のコサック将校が、到着したばかりの列車乗客でごった返すプラットホームで彼女を射殺した。そして、オーリャ・メシェールスカヤが校長を打ちのめすことになった信じられない告白が完全に裏付けられたのである。というのも、将校が法廷調査官に対して行った供述によれば、メシェールスカヤは将校をかどわかし、ねんごろの仲となった彼に妻になる誓いまで立てていたが、殺人のあった当日、ノヴォチェルカスクに向かう彼を見送りに来た彼女は駅で突然、自分は一度として彼のことなど愛したことなく、婚約話は全部彼へのからかいでしかないと告げると、マリューチンのことが書き綴られた日記のページを彼に読ませたというのだ。

「私はその文面にざっと目を通すと、おもむろに、私が読み終わるのをプラットホームでぷらぷら待っていた彼女に向けてぶっ放したんです。」将校はこう言った。「この日記、ほら、ここです。去年の七月十日のところを見て下さい。」

日記には次のように書かれていた。

《今、夜の一時。すっかり深い眠りについてたけど、ふと目が覚めてしまった…もう私は女になったのね! パパ、ママそれにトーリャたちはみんな街に戻って、ここに残ったのは私一人。一人になれて本当によかった! 朝は庭と原っぱを散歩、森に入ったとき、この世界には私一人っきりのように思えて、これまでの人生で最高だと思った。昼食も一人でとって、そのあとずっと一時間遊んだけど、音楽を聴いていたときの私、いつまでも終わりなく生きていくだろう、誰よりも幸せになるんじゃないかって気がした。そのあと、パパの書斎で眠り込んでから、四時にカーチャが私を起こしに来て、アレクセイ・ミハイロヴィッチが来たって教えてくれた。私は彼が来てくれて大喜び、彼を迎えて色々お世話できるなんてホントにご機嫌だった。彼が乗ってきた二頭立てのヴャートカ産の馬はとってもキレイで、玄関口に立ちんぼ、彼が家で休憩に立ち寄ったのは雨が降っていたからで、夕方までには体を乾かしたかったから。彼はパパがいなくてがっかりしてたけど、気を取り直して私のダンスのお相手をしてくれたし、私のことがずっと前から好きだったとか言って、さんざん冗談を飛ばしてた。お茶をする前に庭を散歩する頃には、また外も素晴らしい天気になって、すっかり寒くなったとはいっても太陽はすっぽり濡れそぼった庭のあいだをキラキラ輝いて、彼は私の腕を組み、自分はマルガリータを引き連れたファウストだとか言ってたわ。彼は五十六歳だけど、まだまだどうして素敵だし、いつも上品な身なり。ただ一つだけ身なりで気に入らないのは、家に来た時にトンビを羽織っていたことね、あれってイギリス製のオーデコロンの匂いがしてた。でも、眼はまだ若々しいし、黒々としてるし、髭は几帳面に長く二つに分けてあって、きれいな白金色をしてる。お茶を頂いたのはガラス張りのベランダ、なんだか気分が悪くなったので私は低い長いすに横になり、彼はと言うと、しばらくタバコを吹かしてから私の側に座り直すと、また色々と私のご機嫌をとる話を始めては、じろじろと私のことを見てから、手にキスをし始めた。絹の肩掛けで顔を覆うと、彼は肩掛け越しに何度か唇にキスをし…どうしてあんなことになってしまったのかしら、気が触れたんだわ、自分がこんな人間だなんて考えたこともなかったもの! こうなれば助かる方法は一つしかない…あの人に対する嫌悪感にはとても耐えられないわ!…》

この四月の日々が過ぎていくうちに、街はきれいになり、乾燥し、街角の石は白くなり、その上を歩くのも軽快である。毎週日曜日には礼拝後、街の出口に通じるソボール通り沿いに喪服と黒のライカ手袋に身を包み、黒檀製の傘をさした小さな女性が進んでいく。その女性が街道沿いに横断していく薄汚い広場には、煤を被った鍛冶場が数多くあり、そこを野原から爽快な空気が吹き込んでいる。その先をさらに行くと、男子修道院と城市のあいだに曇った天蓋は白み、春の野は灰色に色褪せて見えるも、修道院の外壁下にある水溜まりの隙間を突き抜けて左へ向きを変えると、そこで目にするのは白い菜園に囲まれた背の低い、広々とした庭のようなもので、その菜園の柵には聖母昇天と刻まれている。小さい女性は細かく十字を切り、慣れた足取りで小径を歩いていく。樫の十字架を前にしたベンチまで来ると、彼女は風吹きすさぶ春の寒さの中、薄手のブーツを履いた両足と窮屈なライカ手袋をはめた手がすっかり悴んでくるまで、一時間、二時間と座り込んでいる。春の鳥たちが寒さの中にあっても甘く歌うその声、陶製の花輪の中を唸り通る風の音を聞きながら彼女は時折、自分の命を半分呉れてやってもいい、せめて自分の目の前にはこの死者の花輪がなければと思う。この花輪、この墓丘、樫の十字架! まさか、十字架に嵌め込まれた、この隆起した陶製の肖像板から不死の光を眼光から輝かせているあの子がこの下にいるだなんて、それにこんなに純粋な眼差しを今やどうすれば一体、オーリャ・メシェールスカヤという名前と結びついたあの忌まわしきことと重ね合わせることが出来るのか? −しかし、心の底で小さい女性は、何かしら情熱的な夢想に身を捧げ尽くした人間たちと同様、幸福なのだ。

この女性はオーリャ・メシェールスカヤの担任教師で、若くはない未婚の女性、ずっと以前から現実生活をオーリャ・メシェールスカヤとすり替える妄想に生きている。この妄想の発端は、貧しくて、これといった取り柄もなかった准尉の弟で、彼女は自らの魂を丸ごと彼に、何故か彼女には輝かしきものに映じた彼の将来に、重ね合わせた。ムクデン郊外で彼が殺害された時、彼女は自らを理想的な働き者だと思いこんだ。オーリャ・メシェールスカヤの死は彼女を新たな夢想の虜にした。今や、オーリャ・メシェールスカヤは彼女を捕らえて放さぬ思考と感情の対象となった。彼女は休日ごとにメシェールスカヤの墓前に通い、何時間も樫の十字架から目を離さず、棺の中の花に埋もれたオーリャ・メシェールスカヤの顔色のない顔、それに、ある日立ち聞きしたことを思い出すのだった。それはこうだ。ある日の長い休憩時間のこと、女学校の中庭を歩いていたオーリャ・メシェールスカヤがお気に入りの友人で、体格がよくて背の高いスボーチナに早口でまくし立てるように喋っていたことだ。

「父さんのある本にね、父さんって古くて面白い本を沢山持ってるんだけど、女の美しさはどうあるべきかって書いてあるのを読んだの…そこにはね、ほんととても全部覚えきれないほど色々書いてあるのよ。まあ、もちろん黒々としてて、膠に煮えたぎる目ね、ほんとにそう書いてあったのよ。膠に煮えたぎる目よ! それに、夜の如く黒き睫毛、頬をたおやかに咲き戯れるもみじ、細やかなる体躯、人一倍スラリとした手、そうなの、人一倍ですって! それから、ちっさな足、そこそこ大きな胸、きれいな丸みを帯びたふくらはぎ、貝殻色の膝、撫で肩。私、沢山のことをほとんど暗記したほどよ。だって、書いてあることってみんな正しいんだもの! でもね、一番大切なことって何だか分かる? 軽い吐息よ! だって、私のってそうでしょ、ほら、聴いてみてよ私の吐息、ねぇ、言った通りでしょ?」

今やこの軽い吐息も再び世界に、この雲の広がる空に、このさめざめとした春の風の中に散ってしまったのである。

ヌカドコの永遠


生き物とは何か。
それは永遠を担保にして、束の間の命を手にした者たちのこと。
破産すれば、しかし、担保は取り上げられるのでもなければ、売却されるのでもない。
それはすんなり返還される。でも、どうやって?
すべての財産を失う代わりに、紙切れ一枚の人生を生と死のクリップで閉じれば、還ってくる担保。
永遠を分かち合うほど素直な遺産相続人などいやしない。
だから、自分でそれは片づける。
のし掛かる無担保の担保、命と決して釣り合わぬ、その辺に転がる漬け物石の墓碑。
だから墓地は、破産家族の憩う糠床。

2006/05/06

ヘドロ&カプリシャス



反吐が出そうになることがある。

海底深くにも浅くにもある、ヘド。人間世界の浅瀬にも深みにも、ヘドはある。

ロイターの今日の記事は、何とも言えぬ、その浅瀬のヘドの異臭を漂わせていた

「ハリウッド、保守派キリスト教徒を新たな市場に」

まあ、どうでもいい話だが、引用文にある句点の前半部分(「ハリウッド」)はその後半部分に続く「市場」という言葉といつも二人三脚なのだが、その二手に挟まれた「保守派キリスト教徒」というのはここでは何を語っているのか。

要は、ハリウッドはこれまで保守派をマーケティング上無視してきたということを言っているのだが、本当に無視しているのだろうか。「パッション」を例にとって、3億ドル以上の興行成績を挙げたその背景に、保守派の存在を無視できない事実があるというのだ。だが、アメリカがキリスト教国であることは事実上誰も否定していないし、ましてやハリウッドがそんな明らかなことを知らなかったわけがない。むしろ、これまでハリウッドがやってきたことは、ヨーロッパ近代国際法上「先占」(オキュペーション)と呼ばれ、華々しくも「西部開拓」という名で北米大陸の歴史を飾る植民運動が物理的な限界に達したあとの世界を光と陰によって閉じこめること、つまり、砂漠のような西部に自由市場を切り開くべく耐えず蠢き続けるピューリタン的野望を跡づける絶対主義の陰影を映像という陰に閉じこめたのだが、その陰は今度、映像そのものに憑依し、ハリウッドを動かし続けてきたのだ...芸術の名の下で、あるいはエンターテイメントという名目で、それはあたかも、自らが閉じこめた陰影を二度と外に漏らすことなどないと言わんばかりに。だから偶然ではない、ハリウッド俳優たちの示す一種の後ろめたさ、自らの陰をひた隠そうとする政治活動がもう一つの陰としてスクリーンの外に差し込むのをここに見るのは...

先占の後には「飼い慣らす」作業が続く。これぞコロニアルの発想だが、そこに以前から生きていた者たちに対して「生かさず殺さず」の精神がなければコロニアルは成立しない。また、入植者による独立への闘争ともなる。そして、アメリカ入植者たちはこの独立を勝ち取る。だが、ここには「先占」という前提が忘却されることは決してなく、もう一つ別の闘争もあり得る。つまり、「生かさず殺さず」の中で生き延びてきた者たちの闘争だ。今のハリウッドにとっての脅威は保守派ではなく、このもう一つの闘争を続ける者たちであるはずだ。だから、ハリウッドが無視したくても無視できないのは、むしろこちらの闘争の方であって、今や保守派となったブルジョアジーの闘争ではない。

紛れもなく、われわれが映画において見ているのは陰影であるが、ハリウッド映画となると、その陰・影は二重のカゲで出来ている。「先占」という「唾をつけた者勝ち」の論理、そして、ローマ教皇アンド国際法によるそれへの「お墨付き」という二つのカゲだ。

すべての映像がこうだというのではなく、他でもないアメリカ映画だからこそ、このカゲには意味があるし、アメリカ映画の意味もあると思う。東インド会社のように、歴史的役割を果たし終えたあと忽ち消え失せたように、恐らくハリウッドも消え失せるはずである。それは、ライセンス販売という手法を見ても分かるように、そのスタンスが200年以上前と何一つ基本的には変わっていないことから考えても予想がつく。だが、茶が未だに飲まれているのと同じく、それを望む者がいる限り、映画はなくならないだろうし、たとえDVDがデフレの谷底に投げ込まれても、そうだ。大陸会議ならぬ、海洋会議でも開いて、アメリカのカゲと闘う者たちは独立を果たさなければならないのだろう。

アカデミー賞というお茶の品評会も、いずれは数奇者の懇親会になろうが、それはあくまで、この世のカゲに包まれながら...だから、というわけでもないが、ロイター電には、ヘドが出る。