2008/06/08

GOOGLE自動翻訳ごっこ


今日はGOOGLEの翻訳機能で遊ぶ。

先ずは、オリジナルのテクスト。
【夏休みちびっ子クイズ大将!】

司会者:最後の問題です。お姉さん、よろしく。

お姉さん:「人類に共通の敵とは何でしょう?」

司会者:答えがわかったちびっ子は鼻に付いている赤いボタンを押してね。

「ピンポーン」

司会者:はい、では、岡山のヒロシ君、答えをどうぞ!

ヒロシ君:いじめ問題だと思います。

司会者:ヒロシ君、残念。いじめじゃありません。もっと、問題はユニヴァーサルだよ。

「ピンポーン!」

司会者:はい、では三重のアキヒサ君。

アキヒサ君:テロ?

司会者:ブー。違うよ、違う。そんなの生易しいもんね。もっと身近なことです。

アキヒサ君:じゃあ、モンモンやくざ?

司会者:あの子、摘み出して。じゃあ、お姉さん、答えをよろしく。

お姉さん:正解は、「死」でした。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
これをロシア語へ変換(ここでは省略)し、さらに日本語へ翻訳。

【夏休みの子供たちちび参謀本部クイズ!】

司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵とは何ですか?"

モデレータ:その答えが見つかったひき生産子供には、赤い鼻のボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山博に、に答える!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:宏ごめん。ミスターいじめです。さらに、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン!"

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しいの" Sします。もっと身近します。
安芸hisa私:そのため、月月-犯罪者ですか?

モデレータ:ことを選んだからです。ええと、お姉さん、ご多幸をお祈りに答えています。

シスターズ:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵とするとはどういう意味ですか? "

モデレータ:ひき生産の答えが見つからないの子供がいることで鼻の赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、宏岡山、その答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月-犯罪者ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、お姉さん、お客様の多幸をお祈り申し上げます答えです。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産ていないと答えて、子供の鼻が赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山宏答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、あなたの姉妹、お客様のご多幸をお祈り幸せに回答します。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産と対応していない子供たちは、鼻の赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、宏岡山答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、お姉さん、お客様の非常に最高の幸福に対応しています。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産を満たしていない場合、子どもたちや鼻、赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山宏答え!

宏君:フーリガン行為の問題と思うのです。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、あなたの姉妹、福祉の回答をして非常にベストです。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
いずれも、最後の答えだけは正しく変換された。自動翻訳、恐るべし。

2007/09/13

Don't make a FOOL of yourself, Free CHINA!

何はなくとも、今はチャイナなのか。
100円ショップがなければ生きていけないわけではないが、ひどすぎる話もある。

先日、トランプをたまたま買う機会があった。
プラスティック製のトランプだ。
安物買いを避けようとしたが、ダメだった。
箱を開けるとナンジャラホイ。
41枚のお出まし。つまり、全部で11枚も足りない。

フリーマーケットでももっとマシだろうと思ったが、
それとも、中国では41枚が正統なカード数なのだろうか。

100円ショップを殿さま商売と呼べないとしたら、これなんぞは足軽商売とでも呼ぶのか。

ちなみに、ジョーカーはしっかりと二枚揃い。
すっかり担がれたぜぃ。

2007/09/01

人は悪ゆえに正気なり


こんな声が聞こえてきそうだ。
「不思議でならないのよねぇ〜。そう、裏金・不正受給が問題になってるけどさ、表金ってのはどうなのよ。
それって、いいわけ? 特定の支援者が払ってるお金って、結局は利益供与に何ないわけぇ〜?」

利益供与とは、商法上の話として考えた場合、総会屋のことがすぐ思い出されるが、赤の他人の人間関係なんてのは、そもそも全て商法的な言葉で片づくものである。つまり、利益不利益のバランスに基づいて人間っつうのは動いている。「金じゃねぇんだよ」との非難もあろうが、利益とは金だけじゃないということを断っておこう。

政治家の裏金とか、不正献金とか、不正受給なんて話が多い。だが、そんなことはどうでも良いと思うべきだろう。
そもそも、政治家は何某かの利益保護を代表する。そこに、裏も表もない。つまり、利益保護を代表する限り、それを貫かねばならない。
「政治汚職」とは、上に言った意味での政治家という職が清貧であるとの幻想の上にしか成り立たない虚言である。
職を汚す、というのであれば、それは政治家業という「業」を全うしていると、私は思う。
思う、と書いたが、それは、その業を全うすることを正しいと言っているのではない。
要するに、政治家は「聖職」ではないと言いたいのだ。

やらせればいい。不正受給していようが、領収書を5回ほど使い回していようが、どうでも良い。
それは政治家職の清貧でないことを彼らが身をもって実証しているのだから。
悪の実証である…悪人正機?(五木寛之じゃあるまいし)

五木寛之で思い出したが、四月の帝国ホテル前ですれ違った。上野公園のジャズフェスティヴァル後の花見のあと、地下鉄経由で六本木を歩いていた時のことである。
悪戯半分で、ロシア語で話し掛けようとしたが、大層べっぴんの編集者風麗人が同伴だったので、止めた。

ちなみに、あの髪型は、闇夜でも絶対分かる自信がある。


「カラマーゾフ、万歳!」

2007/08/24

スカラベの品性

「格調」という言葉を久々に聞いた。
中国からのニュースだ。
またかぁ...とお思いの向きもあろうが、そうではない。
陳腐な「プラスティック・サージャリィ」のお話。

今時は、品よりも品ー物(商品)を売り物にするものであることは3歳の童子でも知っている。
「あれ買って」「これ買って」と泣きつく子供はこの際どうでもよい。
「格調の低い番組」という批判というよりも、中共のオリンピック対策がらみのキャンペーンであろうか。
矢面に立ってあえなく倒れた品に欠けた番組の説明をするつもりは毛頭ない。
ただ、二、三点言おう。

モラル向上キャンペーンにせよ、”顔面粘土”手術(整形)にせよ、全て「表層」面が問題になっている。
少し前の日本のガングロにせよ、美白にせよ、「見た目が9割」にせよ、”即物的”という老人じみた言葉を使う気はない。
寧ろ、そもそもが「唯物的世界」に人間はどっぷりと浸かっているのだということ、
つまり、意識などは所詮、誰にも知られなくてよいもので、二の次三の次の代物だということだ。
「意識を持て」などなどの黴臭い精神論の古いことは確かだが、
「儲かりまっか」的商人意識を持つ気にもこれまたなれず、似而非サムライ節を吹聴して回る気にも毛頭なれない。

つまり、全ては商売ショーバイであり、生き残るためには整形することも辞さないのだ。
これはとりもなおさず、消費者層にまで降りてきた商業主義的サヴァイヴァルであり、
その時、女はマスクで男を騙し、男は金で女を騙す。至って分かりやすい昆虫の世界だ。

スターの顔は昆虫化し、そのわざと歪ませた鈴虫の声で媚びを売る。
駆け出しの少女趣味アイドルは、その媚態で高解像度のスクリーンを一面ピンク色の春にする。

この時代、太陽も転がさぬスカラベである限り、死の後も再生はない。
それはただのフンコロガシであり続けるのみだ

2007/08/23

日本荒口野朽連盟(荒野連)

「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。

二つの文を比べてみよう。

「審判は絶対的である」(1) 
→ 主語=審判、述語=絶対的

「絶対者は審判である」(2) 
→ 主語=絶対者、述語=審判


(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。

(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。

(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。

Some like it CUT.


日本人は、切られるのがお好き。
だから、切られないと、自分で自分を切る。
正直、現代日本人がサムライ魂という時、両眉の周辺の筋肉が引きつれを起こす。

昨日、またマスコミに小指が届いた。
ご存知の通り、靖国がらみだ。暴挙とまでは言わないが、大概、こういうのを聞くとイヤ気がする。
仲良し公安にでも教えてもらったのか、はたまた、伝統芸なのか。
まあ、どうでもいいが、手にはあと29関節も残っているので、問題なかろう。

これは冗談に過ぎないが、もしかして、指切り芸が達者な連中の指先は爬虫類ほどの再生力があるのかも知れない。
牢屋に入ってからの更正力はなくても、恐らくいくら切っても生えてくるに違いない。

僕にはせいぜい、湯上がりの爪を切って抗議するくらいしかできない。
でも、こちらの方が長続きする。爪だって、元々は指の細胞なのだし。

最後に。
「ラストサムライ」を見て、これのどこが感動する映画なのかと思った。
コメディとして取るなら別だが、あれではほとんどキホーテの世界である。
あれなど、諜報機関の外国人に煽動された顛末を追ったものに過ぎず、どっかで誰かが嘘をついている気がした。
でも、仕方ないか --- Some lie(さむらい).

P.S.: 「お熱いのがお好き」を思い出した。主人公のジャック・レモンがどさくさ紛れに女に変装し、そこで素性を明かさずマリリン・モンローを騙し続けるうちに、彼女に恋するという話。変装と攻略、男と女、外国人とサムライ---記号が違うだけで、モチーフは同じことに気付く。

2007/08/22

アニヤ・ヒドンマーケット


アニヤ・ハインドマーチのエコバッグ完売。私の大好きなエコな話題である。

いつこのバッグが完売になったかなどは知らない。
しかし、日本の代理店のホームページでは「完売」とあった。
エコな時代である。

そもそも、原発がダメだというプロパガンダ以降、図らずも(?)エコ・マーケットは膨張の一途を辿っている。
反原発論者の極論に「どうせ電力消費の大半は東京なんだから、都心のど真ん中に炉心でも何でももっていけばいい」というのがある。
そして、都会人はエコに疎い、だのといった議論になりがちである。農村はそもそもエコなのだと。
しかし、である。東京の人口は、恐らく今では、そのほとんどが田舎者で占められているはずだ。
ドーナツ化の話をしなくても、東京近郊から来る人間の方が、公共サービスをより頻繁に享受していることになる。
どれほど田舎者にエコ意識の高さが見られるかは疑問が残るというもので、一昔前の生活サイクルの話と今のエコの話を混同してはまずい。

昔の農民はエコを相手にしているのであっても、それを儲けにはつなげなかった。
今やエコとはマーケット商品であり、これで商人は財を築くのである。
そこで崇高な理念が掲げられていようとも、それは商人的理念に過ぎず、競争相手も含めた誰もが幸せになるという題目はあり得ない。
エコバッグも然り。

さっそく、プチブルを相手に小銭を稼ごうという人間がオークションという魚河岸でこのエコバッグをさばいている。
9000円程度の値が付いていたが、果たしてあんなロゴの入ったただの鞄を誰が買うのだろうか。

"I'm not a plastic bag."

自然を散々搾取してからに、そのあとはまるで人ごとのように「エコ」である。
その最たる者が自動車メーカーだが、こんな車は売れんだろうなぁ。

I'm not a plastic car, but just drink petronium.

2007/08/20

安全を食わば毒まで


Free China, or China free?

食品安全という見地からか、最近よくテレビでは中国製品を家庭から一掃するとどうなるか、つまり、生きていけるのかという実験をしている。単純な疑問だが、これを中国本国でやってみたらどうなるのか。
無論、生きていけないだろう。
なぜなら、China freeなどは彼らにはあり得ないことだからだ。

ただ、Free Chinaはどうだろうか。つまり、彼ら中国人を低賃金で働かしている外国企業、そしてそれと結託している中国官僚機構から解放するとどうなるか。
これも生きていけないことに変わりはない。

したがって、最初の問い、Free China, or China free?とは、愚問であり、非現実的な問いだということになる。

戦後経ってからのの日本製品もやはり同じく、安物のすぐ壊れるB級品と言われていたわけだが、海外で物を作れなければ、日本人は恐らく不当に高額なものを買わされていたことだろう。中国サマサマなのに、まるで人ごとのような報道が多い。

Made in Occupying Japan

2007/08/14

L'autre bout du monde virtuel N2「自由の館へ」ようこそ


                        緑=自由/黄=そこそこ自由/藍=不自由

L'autre bout du monde virtuel N2

非政府系非営利団体にも色々と毛色がある。

例えば、旧ソ連地域の、しかも地政学的戦略拠点と言える地域で活動するアメリカ系団体「自由の家」。
1941年にルーズベルトの肝いりで創設された非営利シンクタンクだが、その主な支援元は合衆国政府。
したがって、その外交政策には親近性が極めて高い。
その幹事を務めるピーター・アッカーマンはスティーヴ・ヨーク監督の「Bringing down a dictator」の制作にも手を貸しているが、
このドキュメンタリーは各国の学生運動家に見せるためのプロパガンダ用に現在も使用されている政治映画(この模様はフランス人ジャーナリスト、マノン・ロワゾManon Loizeauのドキュメンタリーで確認できる)。

ちなみに、歴とした反ナチ・反共団体でありながら、民族分離の巨壁を立てるイスラエルに対するその年次評定は「ランク1」(=自由な国)。このような怪しい資料が議会などで利用されるのを見て、非政府・非営利という言葉に違和感のない者は恐らくいないだろう。

そのミッションは次のように宣言されている:
「「フリーダム・ハウス」とは、世界における自由の拡大を支援する独立系非政府団体である。自由が可能であるのは唯一、政府がその自国民に対して責任を負う民主的政治システムにおいて、法の支配が広く行き渡り、表現・連帯・信仰の自由、さらにはマイノリティや女性の権利が保障される場合においてである。
自由は最終的に、率先して事に当たる勇敢な男性・女性の行動にかかっている。われわれは非暴力的な市民のイニシアティヴを、自由が否定されていたり、あるいは脅威にさらされている社会において支援し、すべての人々が自由である権利を脅かそうとする思想や勢力に反対する。フリーダム・ハウスは、分析・擁護・さらには行動することを通じた自由・民主主義・法の支配のための触媒として機能するところのものである。」("Mission statement")


http://www.freedomhouse.org/template.cfm?page=1

2007/08/11

プリゴフに関する誤報

共同通信社が伝えたプリゴフの死に関する誤報。

前衛パフォーマーで詩人でもあったプリゴフが先日亡くなった。
1940年生まれの彼は来日もしたことのある人物で、本国では教え子もいる。
ただ、その彼の評判を鵜呑みにするのは、あちらの事情に疎いか、贔屓目であるからだろうか。

パフォーマンス、ハプニングというものにとって、個人の死は最大のパフォーマンス、
つまり、それが本来創作し得ないものであるが故の絶頂であるとさえ私は思っている。
共同通信は何故か、その絶頂について述べてもいなければ、誤って彼が「10日前から入院していた」
(そしてそこで死亡した)と報じているが、この記事は裏を取っていない。
彼は一人で何もせずに病院で亡くなったのではない。
教え子たちのグループ「戦争」と共にその日は、ヴェルナツキー通りにあるモスクワ大学大学寮の22階までタンスの中に入ったまま
昇り、そこで猥雑詩を絶叫するパフォーマンスが行われるはずであった。
しかし、その22階に上がっている最中、タンスの中で持病の発作が起こったのである。

パフォーマーにとってはこの最期が報じられないのは、遺憾であったに違いない。

ちなみに、彼の葬儀費用に4000ドルを集めるチャリティをアントン・ノーシクがブログサイト「ライヴ・ジャーナル」で始めたのだが、これが一種のスキャンダルになっている。このチャリティ自体がではなく、これを不可解なキャンペーン(彼にはロンドンに地所があること、その彼に4000ドルなどは端金だろうということ、そもそもそんな人間に葬儀代を集めるのは寧ろ非礼であるということ)だと取り上げた作家ガルコフスキーが、あるウェブ出版所との契約を突如打ち切られ、それが大きな波紋を広げていることだ。

しかし、これこそがプリゴフ最後のパフォーマンスだったのだと考えれば理解しやすいのだが、生真面目な連中は亡くなった彼の死を悼むことにマジメ過ぎて、プリゴフが誰だったのかを見失っている。

詩人は人間か、作品か。
少なくとも、ただの人間であるとは言い切れない。

2007/08/08

"L'autre bout du monde virtuel" N1


新シリーズ" L'autre bout du monde virtuel"

この世の中には一見しただけではその本体のよく分からぬ「キメラ」的事物が多く存在している。
そのことはネット世界にも反映される。

社団法人 機動隊員等を励ます会
http://www.hagemashi.com/index.html

法人化する意味がどこにあるかは皆さんに考えてもらいたい。
単なる後援会としての存在意義云々ではなく、社団としての法人格を社会に認めてもらう必要がどこにあるのかということを。

Always look on the bright side of death



数年前に「パッション」が世界上映された時は、この「ライフ・オブ・ブライアン」が世界各地で再上映された。
「奇跡の丘」や「パッション」を見てから「LOB」を見る人には、ただの聖書もののパロディにしか見えないだろうが、さにあらず。
再上映の経緯は、冒涜的だということから当時DVD化されていなかったということもあるが、この映画をPythonsはマジに作っていたことが一番重要。

「コメディからは何も新しいものは得られない」とジョン・クリーズが最近語っていた。しかし、われわれが彼らの作るものから得るものは少なくない。少なくとも、彼が「日常を笑っても新しみもなにもない」、つまり「新たな発見に乏しい」というとき、それならば、生全体を笑いの坩堝に叩き入れることで、生の淵を垣間見てやろうという意志を持ち続ける必要があるのだろう、と私は感じる。

だから、鬱になっている暇はない。関係ないわけではないが、朝青龍よ、君は笑えないな。

Always look on the bright side of life

words and music by Eric Idle

Some things in life are bad
They can really make you mad
Other things just make you swear and curse.
When you're chewing on life's gristle
Don't grumble, give a whistle
And this'll help things turn out for the best...

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

If life seems jolly rotten
There's something you've forgotten
And that's to laugh and smile and dance and sing.
When you're feeling in the dumps
Don't be silly chumps
Just purse your lips and whistle - that's the thing.

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

For life is quite absurd
And death's the final word
You must always face the curtain with a bow.
Forget about your sin - give the audience a grin
Enjoy it - it's your last chance anyhow.

So always look on the bright side of death
Just before you draw your terminal breath

Life's a piece of shit
When you look at it
Life's a laugh and death's a joke, it's true.
You'll see it's all a show
Keep 'em laughing as you go
Just remember that the last laugh is on you.

And always look on the bright side of life...
Always look on the right side of life...
(Come on guys, cheer up!)
Always look on the bright side of life...
Always look on the bright side of life...
(Worse things happen at sea, you know.)
Always look on the bright side of life...
(I mean - what have you got to lose?)
(You know, you come from nothing - you're going back to nothing.
What have you lost? Nothing!)
Always look on the right side of life...

2007/08/05

押し問答とは公案にあらずして、公安の謂なり。Aum...



Jay, Guru, Deva,...Aum.
Nothing is gonna change my world.
職務質問は「任意」であるゆえ、何ら警察権力による拘束力も発動されない。
したがって、もしもこれを妄りに振り回す公安を前にした時には、
その姓名を尋ねた上に、職務権限を逸脱している旨を知らしめることわれわれの救われる道なり。
南無。

2007/07/27

ロウソクを垂らされた睾丸に鞭(略して「厚顔無恥」)


私は知らない。
農水省大臣の事務諸費や領収書やレジシートを誰が水増ししたり誤魔化したりしたなんて、当然知らない。
見え透いた嘘を「仕方ない」なんて言って済ませる国民なんて知らない。

明日は選挙日。
そんなこと知らない、なんて言う奴なんて知らない。

ニッポン、蛮罪!

日本は抑圧国家である。
しかも、陰湿さと愚弄さに満ちている。

仮に、飲酒運転で検挙されたことで、仕事を自粛しなければいけないというのをもっともな話だと思う人間は
立派な日本人である。
だが、同時に、立派な人間だとは言わない。

人前で泣きべそをかいた後で、仕事をキャンセルするというのはどういうことか。
ケジメという言葉もいかがわしい。責任を逃れるための、客観性を欠いた適当な口実である。
それが日本の責任の取り方なのだ。それは何よりも、必要以上の抑圧を避けるための口実であり、
それゆえ、客観性を欠いているのだ。

織田君が泣きながら弁明をしていた。毒でももられるのではないかというほどの涙だ。
彼は悪いのだろう。だから、ベソもかいたのだろう。
だが、この抑圧はどこから来るのか。自民党か?民主党か?共産党か?国民新党か?社民党か?(最後のは無さそうだ)

戦前戦後はサーベルか鞭を腰に付けた教師が教室を我が物顔で闊歩していた。
この種の抑圧は消えた、のだろう。
しかし、この権力というのはいかにも巧妙であり続ける。
どこに身を隠したのか、と思うほどに至るところに機動し続けている。
人が人前で泣くとはどういうことか。
また、それをメディアで流すとはどういう事か。
そして、その現場を前にして、カメラをパシャパシャする輩はどういった奴らか。

考えるべきことが多すぎる、この惜しむジャパンの時代にも。

ニッポン、蛮罪!

2007/07/23

Contra personas Micropterorum

人柄、つまり、言い換えれば人格を攻撃することが政治闘争の合理的な手段であるかどうかは知らない。しかし、政治家の人格攻撃によってダメージを与え得るということ自体は紛れもない事実である。

そもそも、政治家に人格者が選ばれるということは絶対条件などではなかった。土地を持ち、つまり、自らの支配する領土を有する者たちが政治に手を染めるのが習いであったのだ。しかも、そこにエリート学歴などが物を言う余地などはなかったのであり、これが一般化するのは議会制イギリスにおいても19世紀後半のことである。それゆえ、政治家業とはそもそも金策に困る者がなる職種ではなく、支配の術に長けた者がなる貴族的な職業である。
それが、民主社会と呼ばれる時代には貴族的職業は流行らなくなる。が、政治家業が無くなるわけでは無論なく、支配の術だけでは人を酔わすことは出来なくなる。そこに“人格”というマジカル・ワードが登場する。この時代、民衆からすれば貴族的であること自体が一つの抑圧のシンボルであり得、しかも、それを払拭するためには政治家は常に”有徳”を口にせねばならないが、政治家に人格があったとて、金がなければどうなるか。その答えは誰もが知っていよう。五万円以下の領収書をゴマンと切って、政治家を支えるという半ば裏社会との密約だ。この日本の政治がもつ透明度、これはせいぜい、外来種ブラックバスに湖沼を荒らされた琵琶湖のそれに過ぎない。こうなると、現今の政治家はブラックバスに似はじめ、人格など攻撃する意味すらなくなってくる。ブラックバスのエサ代こそは、かの「花代」が象徴しているではないか。政治家に人格を認めるか、それともブラックバスに人格を認めるか、さあさ、お立ち会い。

2007/07/19

青銅時代

”産経”テレビが昨日、何故か未だに「ゴールデンタイム」と呼ばれ続けている時間帯のバラエティ低迷を分析した。

その結果はすでにネット上でも知られているところだが、テレビに飽き飽きしている人間がこの世に五万といることがある程度伺える。

無論、ネットの言論が世論すべてを反映しているわけではないし、かなりの偏向もある。しかし、だ。どうやら、このテレビの白痴化は社会の白痴化と連動していることはまず間違いないし、言語能力の低下も直結していることを考えれば、日本だけが抱える危惧でもなさそうだ。

私がよく見るロシア系テレビでは、いわゆる「セレブ」がボクシングをする見せ物がある。流行っているのかどうかは不明だが、第一チャンネルというプーチン直下の局だ。セレブといっても、少し日本とは毛色が違うので、「インテリ」と言い換えた方が良いかもしれない。いずれにせよ、立場を入れ替えれば、相撲取りが国際情勢を論じたり、原子力発電の原理を解説するような、まるで無謀な番組を見せられているようなものである。

日本の事情は多少違うとはいえ、弁護士がマラソンをするところを「愛」のオブラートに包んで見せられたのを思い出せば、さほど違いはないようだ。

専ら、テレビはビデオ観賞用にすればよいのであり、そう考えれば、もう以前から家庭娯楽専用へと活路を見出していたのだ。
そもそも、テレビは勝手にやっているわけで、その影響を語るならば別だが、その勝手にやっているものを「ああしろ、こおしろ」と言ってみても意味がないのだ。しかも、そこにはPR(パブリックリレーションズ)が屋台骨を支えている。もし、テレビ批判をするのであれば、先ずもってこのPRを通じて資本を膨らませようとしている企業体に矢を向けるのがコモンセンスであるべきだろう。そしてさらには、「くだらない」と言いながらも不必要な消費をまんまと煽られている視聴者自らが自嘲的であることも必要だろう。

テレビの「窓」に目をやることに飽きた連中は、ネットの「穴」でデバガメ精神を養う。その連中にゴールデンなど興味はない。
好きな時に好きなだけ覗き見出来るネットだからこそ、YouTubeもグーグルアースも成立可能なのだ。

軍事衛星風デバガメ「ブロンズタイム」の到来である。ここに喜びは無論ない...

2007/07/07

ボは亡国のボ



善意を狩ることをグッドウィル・ハンティングと呼ぼう。
あの、昔話題になった映画の題名と同じだが、無関係だ。
派遣労働からのピンハネに対して、日雇い労働からのピンハネは約4・5倍以上に上る。
単純に、日雇いの善意狩りから得られる不労アガリ(風呂上がり)は、4割5割である。
これを肥やしにグッドウィルは善意を狩りつづける。

無論、これは労働基準法に準拠したやり方であるので、彼らは飽くまでも法によって裁かれることはない。
しかし、誰が見ても「グッドウィル・ハンティング」である。つまり、足元を見ている。
どんなピンハネがこの世に跋扈しているのか、丁稚奉公でもあるまいし。

概して、今の行政制度改革というものがいかに生温いかをよく知れと言わんばかりに、官僚機構の奇行ぶりは度が過ぎている。
一層のこと、ヴォランティア組織に改組してしまう方がグッドウィリングな人たちには適っている。
公務員には釜出しの手伝いを本業にしてもらい、それに対して給与を出す。
一方、釜出しの食事に与る人たちが公務員の仕事をヴォランティアで行う。それに対してはネットカフェを無料開放する。
今の理想的な国家像がこれだと訝る人も多かろうが、しかし、そこまでこの世界は疲弊している。
公僕は亡国の謂なり

2007/07/02

日系余生



酷な話をしよう。

先ず、私は原爆体験者でもなければ、好戦論者でもない。
そして、自民党支持者でもなければ、共産・社会主義者でもなければ、さらに、民主党支持者でもない。

政党政治家というのは一個の人格であることを越えて、一つの鋳型に塡められることを甘んじる故に政党政治家と呼ばれる。
これは一介の聖職者が時流に任せて遵守すべき教義を勝手に解釈できないのと同じで、それがイヤならば政党を離脱するしかない。
そして、彼を選ぶのは国民であるが、彼が彼自身の言葉を選ぶのは国民ではない。その意味で「しょうがない」というのは勝手な話ではあるが、「しょうがない」。となると、このしょうがない政治家をどうするかはわれわれの責任である。お咎めを受けることが分かっているような発言をすること自体、そこにその理由を探す必要はあろうが、人格攻撃の意味は皆無であろう。なぜなら、彼は「しょうがない」政治家なのだから。そして、その彼をまたぞろ支援するようなことになるとすれば、これまた「しょうがない」選挙民なのであろう。となると、誰が悪いのか。人格の崩壊しつつある政治家を堰き止めようとする一部の選挙愚民か、はたまた、人格を専ら必要とせず、一部の民の愚弄さを利用する政治家か。

正直な話、私は離党する党のない身分であり、日本がこのままでありつづけるのだとすれば、日本を離れるべきなのかも知れない。日本国憲法の素晴らしいところ、それは、誰も日本を離れる者を引き留めることは出来ないことを保証していることだ。

いっそ、ペルーにでも出稼ぎに行って、政治家にでもなろうかと思う。

2007/06/28

法ホウほう




ビリー隊長が偽善者であることは誰も否定できないはずだ。
なぜなら、もし自分が本当に良いと思うものならば、それを無償で人に分けようとするのが善人の筋だからだ。
だから、偽善者なのだ。しかし、彼が「悪人」といっているわけではない。そこは間違ってはいけない。
善人と偽善者の違いは分かるが、悪人と偽善者は混同されやすい。

偽善者は世に五万といる。例えば政治家たちだ。だが、彼らを悪人と切り捨てることは出来ない。
なぜなら、候補者という名目で選ばれた連中であり、われわれ選挙民は自らの善意を彼らに引きずらせているからだ。
では、本当の悪人とは誰のことか。

例えば、法の裁きの下で有罪になる者などは悪人だろう。しかし、冤罪の確定される前の人についてはその限りではない。
この三日間行われてきた光市母子殺害事件の裁判における弁護人をその政治的活動への傾倒を理由に断罪する声があるが、立法の現場における被告側弁護士による政治活動をもってその根拠としている評論家連中、さらにはそれに煽られるマスコミの挙動が見られるが、立法の現場で政治的活動が見られたことがないと考えることほど、その立法に対する稚拙な態度はない。
立法に政治がかかわらないとする根拠は、おそらくは三権分立の原則であろう。

しかし、そのような原則が政治という超越的だからこそ生臭い”生物”を前に、果たして機能すると考えることはどれほどわれわれの救いになるのか。死刑を許す許さぬの問題は別である。しかし、仏教徒の法務大臣がその座に鎮座しているあいだにどれほどの死刑執行がなされたか。ほとんど皆無に等しい。ということは、そこに政治がすでに介在しているということである。

つまり、法律を超然たるものとみなすことは許されないし、許してはいけない。ということは、そこに政治が非政治的な装いで常に自らのレパートリーを演じるのが常なのだ。したがって、そのような現場においては政治的な手段をもって闘わねばならない。さもないと、立法の仮面の政治がその自らの姿全てを立法化するだろう。政治は立法となろう。立法に頼れない現場で、立法に対して法で対抗するのは自らの無効力を晒すことにしかならない。よって、裁判法廷中での政治運動を許し、自らもその中で政治化することこそが最短距離であろう。弁護士側への人格攻撃など無用なのだ。法に人格など知りようがないのだから。