
Post coitus omni anima triste...
人間はもともと蛆に起源を持つもので、その蛆というのがぞっとしない単純極まりない管であり、中身は空っぽ、あるといえば悪臭を抱え込んだ虚ろな闇ばかりなのだ、という自らの考えを彼は打ち消すことができなかった。--- プラトーノフ
「欲望果てる国のアリスとテレーズ」
E.E. カミングス
カザフスタンのSF作家ルキヤーネンコ原作の「夜の警邏」(ナイト・ウォッチ) が数年前に映画化され、この春には日本にもお目見えすることになった。監督はチムール・ベクマンベートフ。



157cm。
無論、これは指導者=僭称者というロシアの伝統的テーマであると同時に、価値体系が常に崩壊を繰り返すフラットな場所として自らを表象し続ける元アンダーグラウンド系ロシア人思想家たちを背景から脅かしている強迫観念じみた考えでもある。そのため、このフラットな面を闊達に動きまわるために彼らが必要とするのは、皮肉にも、僭称の前提となる「仮面」に他ならず、これは映画『もみあげ団』において「プーシキン」や「レールモントフ」、はたまた「マヤコフスキー」という詩人の仮面として描かれる。そして、特徴的なのはこれだけではない。彼らの手に握られているステッキは道化のシンボルであり、これは古典古代にまで遡る神話的アイテムですらある(要するに、ファロスのことだ)。

ソ 連・ロシアSFを全て見たわけではないので、次に言うことに説得力がないといわれて も仕方がない。ただ、『キン・ザ・ザ』だけをとれば、そこにある主題としての記憶への視点がずいぶん異なっていることに気づくのである。クルーソーが題材 であることからも分かるように、そこにいる主人公たち(マカロニを買いに出たエンジニアとバイオリンを届けに行こうとしていたグルジア人学生=地球人)自体が異星人であり、E.T.に他ならないのだ。しかも、彼らの持っているものといえば、ぶどう酢とバイオリン(本人たちは弾けない)とマッチ箱(このマッチが映画ではくせ者なのだが)だけで、これで戦争など起こしようがない。彼らの過去は自分から断ち切ろうとする以前に、呆然自失のあまり、振り返るまでもなく遠い記憶になってしまい、しかも、砂漠の惑星ではもはや自分が誰かということを証したてる意味すらない。つまり、歴史との決着やアイデンティティ危機の解決はどこにも顔を出さないのである。そこにはひたすら郷愁があり、しかもそれを上回るばかりの絶望しかない(だが、一見それほどの 悲壮感は漂っていないのが不気味でもある)。言い方を換えよう。記憶は無論問題ではあるのだが、それは「記憶に関する」映画という意味ではなく、この「映画そのものが記憶」であると言ったほうがよいかも知れない。その象徴として、記憶を消された状態で主人公の二人は無事地球に帰還し、地球の外へ放り出される直前の場所に戻るのだが、そこに通りかかった清掃車の点滅ランプを見た瞬間、彼らは宇宙で同じようなランプを頭に付けた上流階級異星人に向かってしていた卑屈なジェスチャーで挨拶をし、二人はお互いのことを思い出す。そしてエンディング。これは記憶の回復を意味するというよりも、映画そのものが記憶であったことを示しているし、それは映画が記憶になった瞬間だと言えるだろう。
