2007/08/05

押し問答とは公案にあらずして、公安の謂なり。Aum...



Jay, Guru, Deva,...Aum.
Nothing is gonna change my world.
職務質問は「任意」であるゆえ、何ら警察権力による拘束力も発動されない。
したがって、もしもこれを妄りに振り回す公安を前にした時には、
その姓名を尋ねた上に、職務権限を逸脱している旨を知らしめることわれわれの救われる道なり。
南無。

2007/07/27

ロウソクを垂らされた睾丸に鞭(略して「厚顔無恥」)


私は知らない。
農水省大臣の事務諸費や領収書やレジシートを誰が水増ししたり誤魔化したりしたなんて、当然知らない。
見え透いた嘘を「仕方ない」なんて言って済ませる国民なんて知らない。

明日は選挙日。
そんなこと知らない、なんて言う奴なんて知らない。

ニッポン、蛮罪!

日本は抑圧国家である。
しかも、陰湿さと愚弄さに満ちている。

仮に、飲酒運転で検挙されたことで、仕事を自粛しなければいけないというのをもっともな話だと思う人間は
立派な日本人である。
だが、同時に、立派な人間だとは言わない。

人前で泣きべそをかいた後で、仕事をキャンセルするというのはどういうことか。
ケジメという言葉もいかがわしい。責任を逃れるための、客観性を欠いた適当な口実である。
それが日本の責任の取り方なのだ。それは何よりも、必要以上の抑圧を避けるための口実であり、
それゆえ、客観性を欠いているのだ。

織田君が泣きながら弁明をしていた。毒でももられるのではないかというほどの涙だ。
彼は悪いのだろう。だから、ベソもかいたのだろう。
だが、この抑圧はどこから来るのか。自民党か?民主党か?共産党か?国民新党か?社民党か?(最後のは無さそうだ)

戦前戦後はサーベルか鞭を腰に付けた教師が教室を我が物顔で闊歩していた。
この種の抑圧は消えた、のだろう。
しかし、この権力というのはいかにも巧妙であり続ける。
どこに身を隠したのか、と思うほどに至るところに機動し続けている。
人が人前で泣くとはどういうことか。
また、それをメディアで流すとはどういう事か。
そして、その現場を前にして、カメラをパシャパシャする輩はどういった奴らか。

考えるべきことが多すぎる、この惜しむジャパンの時代にも。

ニッポン、蛮罪!

2007/07/23

Contra personas Micropterorum

人柄、つまり、言い換えれば人格を攻撃することが政治闘争の合理的な手段であるかどうかは知らない。しかし、政治家の人格攻撃によってダメージを与え得るということ自体は紛れもない事実である。

そもそも、政治家に人格者が選ばれるということは絶対条件などではなかった。土地を持ち、つまり、自らの支配する領土を有する者たちが政治に手を染めるのが習いであったのだ。しかも、そこにエリート学歴などが物を言う余地などはなかったのであり、これが一般化するのは議会制イギリスにおいても19世紀後半のことである。それゆえ、政治家業とはそもそも金策に困る者がなる職種ではなく、支配の術に長けた者がなる貴族的な職業である。
それが、民主社会と呼ばれる時代には貴族的職業は流行らなくなる。が、政治家業が無くなるわけでは無論なく、支配の術だけでは人を酔わすことは出来なくなる。そこに“人格”というマジカル・ワードが登場する。この時代、民衆からすれば貴族的であること自体が一つの抑圧のシンボルであり得、しかも、それを払拭するためには政治家は常に”有徳”を口にせねばならないが、政治家に人格があったとて、金がなければどうなるか。その答えは誰もが知っていよう。五万円以下の領収書をゴマンと切って、政治家を支えるという半ば裏社会との密約だ。この日本の政治がもつ透明度、これはせいぜい、外来種ブラックバスに湖沼を荒らされた琵琶湖のそれに過ぎない。こうなると、現今の政治家はブラックバスに似はじめ、人格など攻撃する意味すらなくなってくる。ブラックバスのエサ代こそは、かの「花代」が象徴しているではないか。政治家に人格を認めるか、それともブラックバスに人格を認めるか、さあさ、お立ち会い。

2007/07/19

青銅時代

”産経”テレビが昨日、何故か未だに「ゴールデンタイム」と呼ばれ続けている時間帯のバラエティ低迷を分析した。

その結果はすでにネット上でも知られているところだが、テレビに飽き飽きしている人間がこの世に五万といることがある程度伺える。

無論、ネットの言論が世論すべてを反映しているわけではないし、かなりの偏向もある。しかし、だ。どうやら、このテレビの白痴化は社会の白痴化と連動していることはまず間違いないし、言語能力の低下も直結していることを考えれば、日本だけが抱える危惧でもなさそうだ。

私がよく見るロシア系テレビでは、いわゆる「セレブ」がボクシングをする見せ物がある。流行っているのかどうかは不明だが、第一チャンネルというプーチン直下の局だ。セレブといっても、少し日本とは毛色が違うので、「インテリ」と言い換えた方が良いかもしれない。いずれにせよ、立場を入れ替えれば、相撲取りが国際情勢を論じたり、原子力発電の原理を解説するような、まるで無謀な番組を見せられているようなものである。

日本の事情は多少違うとはいえ、弁護士がマラソンをするところを「愛」のオブラートに包んで見せられたのを思い出せば、さほど違いはないようだ。

専ら、テレビはビデオ観賞用にすればよいのであり、そう考えれば、もう以前から家庭娯楽専用へと活路を見出していたのだ。
そもそも、テレビは勝手にやっているわけで、その影響を語るならば別だが、その勝手にやっているものを「ああしろ、こおしろ」と言ってみても意味がないのだ。しかも、そこにはPR(パブリックリレーションズ)が屋台骨を支えている。もし、テレビ批判をするのであれば、先ずもってこのPRを通じて資本を膨らませようとしている企業体に矢を向けるのがコモンセンスであるべきだろう。そしてさらには、「くだらない」と言いながらも不必要な消費をまんまと煽られている視聴者自らが自嘲的であることも必要だろう。

テレビの「窓」に目をやることに飽きた連中は、ネットの「穴」でデバガメ精神を養う。その連中にゴールデンなど興味はない。
好きな時に好きなだけ覗き見出来るネットだからこそ、YouTubeもグーグルアースも成立可能なのだ。

軍事衛星風デバガメ「ブロンズタイム」の到来である。ここに喜びは無論ない...

2007/07/07

ボは亡国のボ



善意を狩ることをグッドウィル・ハンティングと呼ぼう。
あの、昔話題になった映画の題名と同じだが、無関係だ。
派遣労働からのピンハネに対して、日雇い労働からのピンハネは約4・5倍以上に上る。
単純に、日雇いの善意狩りから得られる不労アガリ(風呂上がり)は、4割5割である。
これを肥やしにグッドウィルは善意を狩りつづける。

無論、これは労働基準法に準拠したやり方であるので、彼らは飽くまでも法によって裁かれることはない。
しかし、誰が見ても「グッドウィル・ハンティング」である。つまり、足元を見ている。
どんなピンハネがこの世に跋扈しているのか、丁稚奉公でもあるまいし。

概して、今の行政制度改革というものがいかに生温いかをよく知れと言わんばかりに、官僚機構の奇行ぶりは度が過ぎている。
一層のこと、ヴォランティア組織に改組してしまう方がグッドウィリングな人たちには適っている。
公務員には釜出しの手伝いを本業にしてもらい、それに対して給与を出す。
一方、釜出しの食事に与る人たちが公務員の仕事をヴォランティアで行う。それに対してはネットカフェを無料開放する。
今の理想的な国家像がこれだと訝る人も多かろうが、しかし、そこまでこの世界は疲弊している。
公僕は亡国の謂なり

2007/07/02

日系余生



酷な話をしよう。

先ず、私は原爆体験者でもなければ、好戦論者でもない。
そして、自民党支持者でもなければ、共産・社会主義者でもなければ、さらに、民主党支持者でもない。

政党政治家というのは一個の人格であることを越えて、一つの鋳型に塡められることを甘んじる故に政党政治家と呼ばれる。
これは一介の聖職者が時流に任せて遵守すべき教義を勝手に解釈できないのと同じで、それがイヤならば政党を離脱するしかない。
そして、彼を選ぶのは国民であるが、彼が彼自身の言葉を選ぶのは国民ではない。その意味で「しょうがない」というのは勝手な話ではあるが、「しょうがない」。となると、このしょうがない政治家をどうするかはわれわれの責任である。お咎めを受けることが分かっているような発言をすること自体、そこにその理由を探す必要はあろうが、人格攻撃の意味は皆無であろう。なぜなら、彼は「しょうがない」政治家なのだから。そして、その彼をまたぞろ支援するようなことになるとすれば、これまた「しょうがない」選挙民なのであろう。となると、誰が悪いのか。人格の崩壊しつつある政治家を堰き止めようとする一部の選挙愚民か、はたまた、人格を専ら必要とせず、一部の民の愚弄さを利用する政治家か。

正直な話、私は離党する党のない身分であり、日本がこのままでありつづけるのだとすれば、日本を離れるべきなのかも知れない。日本国憲法の素晴らしいところ、それは、誰も日本を離れる者を引き留めることは出来ないことを保証していることだ。

いっそ、ペルーにでも出稼ぎに行って、政治家にでもなろうかと思う。

2007/06/28

法ホウほう




ビリー隊長が偽善者であることは誰も否定できないはずだ。
なぜなら、もし自分が本当に良いと思うものならば、それを無償で人に分けようとするのが善人の筋だからだ。
だから、偽善者なのだ。しかし、彼が「悪人」といっているわけではない。そこは間違ってはいけない。
善人と偽善者の違いは分かるが、悪人と偽善者は混同されやすい。

偽善者は世に五万といる。例えば政治家たちだ。だが、彼らを悪人と切り捨てることは出来ない。
なぜなら、候補者という名目で選ばれた連中であり、われわれ選挙民は自らの善意を彼らに引きずらせているからだ。
では、本当の悪人とは誰のことか。

例えば、法の裁きの下で有罪になる者などは悪人だろう。しかし、冤罪の確定される前の人についてはその限りではない。
この三日間行われてきた光市母子殺害事件の裁判における弁護人をその政治的活動への傾倒を理由に断罪する声があるが、立法の現場における被告側弁護士による政治活動をもってその根拠としている評論家連中、さらにはそれに煽られるマスコミの挙動が見られるが、立法の現場で政治的活動が見られたことがないと考えることほど、その立法に対する稚拙な態度はない。
立法に政治がかかわらないとする根拠は、おそらくは三権分立の原則であろう。

しかし、そのような原則が政治という超越的だからこそ生臭い”生物”を前に、果たして機能すると考えることはどれほどわれわれの救いになるのか。死刑を許す許さぬの問題は別である。しかし、仏教徒の法務大臣がその座に鎮座しているあいだにどれほどの死刑執行がなされたか。ほとんど皆無に等しい。ということは、そこに政治がすでに介在しているということである。

つまり、法律を超然たるものとみなすことは許されないし、許してはいけない。ということは、そこに政治が非政治的な装いで常に自らのレパートリーを演じるのが常なのだ。したがって、そのような現場においては政治的な手段をもって闘わねばならない。さもないと、立法の仮面の政治がその自らの姿全てを立法化するだろう。政治は立法となろう。立法に頼れない現場で、立法に対して法で対抗するのは自らの無効力を晒すことにしかならない。よって、裁判法廷中での政治運動を許し、自らもその中で政治化することこそが最短距離であろう。弁護士側への人格攻撃など無用なのだ。法に人格など知りようがないのだから。

2007/06/23

誤認囃子


ヤフーのトップページには次のようなPRが並んでいる。

流行ビキニで視線くぎ付け
夏はハワイアンジュエリーで
キャミワンピースで涼しげに
足下かわいいビーチサンダル
サングラスでいい女度アップ
自宅で手軽にツルツルお肌
イオンスチーマーで美しく
あなたにもできる、ネイル術
夜は浴衣で雰囲気チェンジ
夏の恋、必勝お泊まりデート


ほほぉー、である。
ソフトバンクは「泥濘の堤防」とでも呼ぶべきか。

そもそも「PR」とは、文字通り”パブリック・リレーションズ”のことである"はずだ"。
しかれば、日本でもゲッペルス・システム満載の大政翼賛的リレーションがこのよなPR企業によって作られている。
この手の公共の「リレーションズ」が、捏造とは言わないが、それでも、虚構間近に近いものとして作られていることは間違いない。

誰の口から上に列挙したような娑婆娑婆で禍々しい言葉が吐き出されるのか。
例えば、「クールビズ」に絡めたエゴイスティックなエコ広告(というか、エコロジカルなエゴ広告)も同列だ。
今更、誰が電気の消し忘れを広告にするセンスを持ち合わせていようか。
こんなこと、ダメオヤジが鬼婆にケツを捻られたすえに、渋々自分のこれまたダメ息子に良い格好を見せてるようなものだ。

PR会社のことを日本では何故か”広告代理店”と呼ぶ習わしがあるが、しかし、何の代理なのか。
ここで川柳一句、

「内裏様、誰のダイリと問われれば、肝入り腑抜けの代理様」

専らのところ、平日はエコを訴えて、憔悴の休日はパチンコに精を出す吾人の代理なのだろう。
やっぱり、エゴロジーである。

2007/06/22

無差別撤廃




将来、男女均等社会というか、それ以上に、男女無差別社会が訪れるのもそう遠くない、と想像することに大して喜びも悲しみも感じないにせよ、物事というか、モノを混同するのが嫌いという人は多いし、それを見ていて違和感を抱くことも少なくない。例えば、豚肉と牛肉をミンスして混ぜ合わせたものを「合い挽き」といい、また、男と女のデートも発音上は同じく「逢い引き」という。一つになることが分かっている分には違和感はない。しかし、この二つを引き合わせる訳にはいかないマッチョの世界では「男」は「男」であって、「牛」は「牛」である。同じ餌を食べていても、豚小屋の臭いは牛小屋の臭いとは違うし、その肉の味が違うのも確かだろう。グルマンの跋扈する世の中に、どれだけの潜在的味覚障害者がいるかは知るよしもないが、ミンスして逢い引きさせた肉弾二銃士を誰が顧みるのかには興味ある。コープはさっそくこの単性肉を装った「逢い引き銃士たち」を商品棚から撤去。消費者という圧力こそがバネの生協にとっては、当然の措置だ。警察も黙ってはいない。ただ、これは不正競争を防止し、嘘をついてはならぬというお題目の上で動いている。

しかし、そもそも、動物には言葉が具わっていない。自分が牛だの豚だのと自己申請することも出来なければ、生物学上牛でも豚でも、人の見た目が牛豚であれば、牛豚と呼ばれてしまう。これをもって、人間は冷酷だとは言わないが、男女の性差にしても同じことが適用されるのをわれわれは知っているし、未だに「性同一性障害」というおぞましい医学用語をレッテルに持つ人が「社会的」に抵抗する姿も目にする。彼らへの眼差しは、この「逢い引き銃士」として偽装ミンチを駆逐する者たちの視線と交差しているとも見える。全くもって牽強付会だが、今度の事件を逆に同性の「逢い引き」励行だととれば、少しは気分は晴れるのか。

2007/06/19

ドクトル・メフィスト


ほとんど20年ぶりに歯医者の門を叩く。
この世から殲滅されても少しも惜しくない歯科医院が
家の近所で最近増殖を繰り返し、ずいぶん前から僕の大事な「親知らず」を狙っていた。
初診の今日は、問診ではっきりこう答えてやったー「歯医者なんか絶滅すればいいんですよねぇ〜」。
すると、奥には僕とさほど年の変わらない「先生」の影がチラッと見えたが、その時彼が苦笑いしていたかどうかは、あの不敵な白マスクに隠れて分からなかった。

以前、呼吸不全でバスを飛び降り、タクシーに乗って近くの総合病院に向かったことがあった。
ただ、その時は運悪く、急患を診てくれる医師がおらずに、たらい回しにされた。
別の病院を紹介してもらった都合、そちらに向かわざるを得なくなり、やむなくまたタクシーに飛び乗る。
でも、気持ちは飛び乗るという言葉とはまったく違い、実際のところは、ひどく懐具合が心許なかったため、呼吸のことなどすっかり忘れ、タクシー代と診療代のことで頭が一杯に。
それでも、結局は「まな板の鯉」は鯉である。というより、懐具合からすれば、せいぜい僕などフナ程度である。
いつもこういう状況が僕を取り巻くと、自分のことを「フナ」だなんだといって卑下しながら、死に神さんに睨まれないようにしているのだ。
いくら喋った所で、捲し立てた所で、看護婦を笑わせた所で、何にも変わらないんだが...
つまり、不安な時は饒舌になるのが人の性なのだろう。今日も同じことを口走っていた。

ちなみに、今日は偶然にもドラマティックな舞台設定だった。
「ファウスト」の第五幕で、これから博士が昇天する直前のところを読んでいたところだった。
勿論、僕にとってメフィストは初対面の歯科医。小さな頃から死ぬほど恐れていたデンティスト=メフィスト。
そして、数十分後。右奥歯の親知らずか子知らずかの歯の抜歯準備開始。
このあたりになるともう現実感が圧倒的で、「ファウスト」がオーヴァーラップすることもなかったが、
それでも、歯の根っこだけは違った。
すんなりと抜けるのかと思いきや、それはまるで性懲りもない魂のように、肉を?んで放そうとしない。
その根っこは文字通り、「豚の蹄」のように三叉に分かれ、歯肉に食い込み、しがみついていたのである。
ファウスト博士には天使たち・マリアたちがついてくれてたが、僕についているのはせいぜい国民健康保険。

ファウストも「3割負担」じゃ昇天するまい。

2007/05/04

”世界を征服するだがや”



どんな受精卵細胞でも、最初に成長して出来上がるのは”口腔と肛門を繋ぐ管”であることは知られている。

それぞれインプット・アウトプットという機能に応じた筋肉をもち、インプット部(グルメ部)には食を楽しいものにするべく、否、より正確には、有毒かどうかを最低限見極める嗅覚器官がその真上には付いているが、アウトプット部(ダッシュボード部)には付いていない。ニコちゃん大王など知っている人も少ないだろうが、ニコちゃん星人は例外である。なんか、このクラブ活動のような響きをもつ器官には、オヤジギャグ風に言えば、大”活躍”をする”括約”筋があり、結構思う通りにも動かせる。余り動かしすぎると第4サティアンでヨガをやっているような気分になり、空中浮遊出来る錯覚に陥るが、そんなことはどうでもよい。

口腔も肛門も、元々は同じDNAが絡んでいる。
局所的に必要な遺伝情報が選び出されたからここには鼻が付かなかっただけの話で、もしこの遺伝子コピーにかかっている制限が緩和されれば、原理上、鼻だって付けられる。アウトプット部に待望の”鼻の新入生部員”入部である。

だから、と、ずいぶん強引な論理だが、最近話題の著作権違反というのはこの”新入部員”の入部のことであり、この違反(違法コピー)が簡単になった今の世の中でその国際的取り締まり強化を訴える”先進国”にとって”鼻の新入部員”は”目の上の瘤”ならぬ、”ケツの上の鼻”なのである。”先進国”と言ったが、何も進んでいるわけではない。ただ単に、市場原理でコピー制限をかけているだけの話で、知的財産原理主義者が出てきたら、それこそ「文字」にも制限がかかるはずで、これなら”先進性”を叫んでも私は文句は言わないだろう。

”ヒューマンネイチャー”という古くて新しい言葉を思い出そう。日本語に訳せば”さが(性)”とでもなろうが、どうしても変えられない、変えようものなら精神が恐慌を起こしかねないことを指す言葉だ。肛門の近くに出来た”風邪のハナ”だって、”楽しければいいジャ〜ン”といってしまえばそれまで。本来のネイチャーならば、これは”遺伝子異常”だが、ヒューマンになると”知的財産権侵害”であり、また、人間の性を裏にとった行為は”詐欺”ということになる。

しかし、この侵害にせよ、詐欺行為にせよ、線引きは難しい。
例えば、中世までの文学と近代以降のそれとの大きな違いは、口承性の度合いの相異と作家の特定可能性だとでも言えようが、それにしたところで、「文字」という人類の一大発明品にまでこのパースペクティヴを適用すると、漢字を使っているわれわれがこの知的財産を無料配布された上に、日々無料で使っていることを考えれば、すでにそれが知的財産だなんてことを忖度すらしない。だから、精々、問題になるとしても、正しい書き順とかくらいで、それ以上のことで文句は言われない。

空想がいささか過剰だが、個々の漢字の発明者がその所有権を主張しようものなら、一文字毎に登録商標がついて読みにくくて仕方がない。ソフトが市場化する時代だからこそ、この”コウモンのハナ”ももぎ取られるわけだ。

ところで、私は中国が好きだ。ヘドが出るほど好きだ。
コピーがいけないことって分かっているけど、コピーしていないって言い張るあの勇気が好きだ。
みんなでミッキー・チナ・マウスを、そしてミッキー・チナ・プーを楽しむことが望まれる。なぜなら、あれがミッキーでもプーでもないことは明らかだからだ。チナズム万歳。

追記
オーソン・ウェルズの『フェイク』という映画での1シーンを思い出した。
エルミアというユダヤ系ハンガリー人贋作画家が「ピカソ」をカメラの前で書き上げ、パイプのライターで燃やすシーンだ。
そして、彼のモットーは「サインは偽造しないこと」。
だから、彼の作品が流通可能であるその前提は共犯者がいるということであり、これが彼の逃げ道。

チナストも、だから、国際メディアの前で非難に晒される前に、チナニー・ランドを全焼させてしまえばいい。
あと、観光客は共犯者にならないために、どれだけ楽しんだとしても、「ケッ、つまんねえ」と言ってみること。

2007/02/07

今日の煽柳


今日の川流れガッパ
「柳の枝をひょいっと引けば、散切りカツラがずれ落ちる」

民主党の肩を持つ気などこれっぽっちもないが、こんなズラ大臣言うことをマジに受け止める方が馬鹿を見るし、前言撤回などさせてはならない。そもそも、「大臣」というのは王に服従する家臣団の長のことを意味する。しかも、われわれが選んだわけでもないのであれば、その人間の発言をわざわざ訂正させるようなことをしても意味が無く、不毛である。直接、彼の言葉を今の皇太子一家に結びつけて考えればよい。大きなお世話、と言われるだけだ。早い話が、こんな田舎者に向けてここぞとばかりに非難の矢を放ったところで、国会審議に貴重な時間を費やす方だけでこれまた馬鹿げている。詰問などせずに、糊が乾いてズレ落ちたカツラにこちらからわざわざ糊など買ってきて渡すような真似などせず、そのままハゲチョビンでいさせればいい。そうしたら、世間じゃこんな噂が流れる:

「あいつも禿ときてるから、きっと、アイツは絶倫だぜ。ははは、産ませる機械ってか」

2007/01/26

改名パピヨンチョコレート


「蛙ゲロチョコ」というのがある。
といってもこれは、とある旧大英帝国コメディの中でのネタ。知っている人には何のことだかすぐ分かるはず。
でもって、旧大日本帝国では口の中でとろけるアンバー風鱗翅類チョコレート(パピヨン・チョコ=略してパピチョ)が流行のようである。食べた人には何のことだがすぐ分かるはず。

このパピヨンチョコに「害は無い」といってのけたことを今更ここでどうのこうの言っても仕方なく、このパピヨンをヒョイと抜き出して金よこせと恐喝して地に落ちてしまうのも情けない。だから、皆さん、ちとでも思いついたらおよしなさい、そんなことは。またとない「当たりくじ」を引いたと思っておけばよい。

どうせ、こんな企業はいずれ、甘露飴の如く輝く慈悲深きわれわれの記憶の中で「蛾」のように硬直してしまうのだから。

われわれの身体は驚異に満ちている蛾、目に見えるものには案外疎い。
自分の顔をいくら洗ったとしても、微生物・細菌だらけだ蛾、美人を見るとそんなことも忘れて、束の間呆然となる。
自分についているものは、ひと先ず「無害」だというわけだ蛾、これは大きな間違いである。

話は全然違う蛾、全体主義というのはこの完全処理の不可能な細菌を取り除こうとするオーバカな政治体制であって、基盤そのものからして、細菌がある程度くっついてるからこそ保湿可能な顔のようなもので、そこにファンデーションを塗りたくろうってんだから、もっぱら体制不全の上に成り立っている。

今どきの日本をトータルに結束するものはない蛾、事ある毎に国旗掲揚・国歌斉唱というのもいい蛾、それ蛾「ヤダ」という連中を捕まえて減俸だとか免職とかいうのは芸蛾ない。どうせならば、「せめて鼻歌でも歌っておくれ」と頼み込むの蛾旧大日本帝国臣民の筋である。多分、唱いたくない連中は「千代に〜♪八千代に〜♪」蛾気に入らないのだろうから、「ニノニ〜♪ナニノニ〜♪」とホノグラムを流してやる。格好のよいものではない蛾、お経のようで和むにちがいない。ちなみに、新しいロシアじゃ、国歌の歌詞も新しいから誰も覚えてない。だから、国民規模のホノグラムみたいなものだ(モスクワの町には看板があるー「みんなで国歌を覚えましょう」)。

人間は「勘違い」するものである。企業はこの人間の塊で、昆虫みたいな顔をしていても人間には似ていない。そして、この勘違いを何度も繰り返しても、「勘違いどころじゃない!」と騒ぎ立てるのは人間の方で、この人間相手の商売が出来ない昆虫集団はいずれは全滅するのである。ただの「間違い」となり、これが嵩じてはもはや世間では「気違い」ということになるからだ。

外野からは「こんなの間違っている、おかしい、ちがう、ちがう!」とマス人間的正義の声が叫び続ける。でも、これにも「が」が混入している。人間の顔をした昆虫の鳴き声が紛れ込んで。

2006/10/28

旧世界胃酸


今日は久し振りに書いてみる。
友人たちからの手紙への返答を差し置いても、だ。
もし、最近手紙を書いてくれた人がこれを読んでいるならば、申し訳ないという他ない。
いずれ出すつもりなのでご寛恕。

さて、今日は「遺産」について一言。
それには「世界遺産」が”もって来い”である。
このような新語を誰が考えたかははっきりしている。
旅行業者とグルになった学者たちか、学者たちとグルになった旅行業者のいずれかだ。
つまり、彼らだ。
私は以前からこの「遺産登録」を「唾付け行為」と呼んでいる。
といっても、こんなことをまともに人に話したことはない。
しかし、例えば、バーミヤン石窟がタリバンに爆破される映像を見て、どれだけの人が「遺産」のことに考えをめぐらせたか。
仏教の遺跡は他の遺跡とは格が違う。
というのも、仏教徒にとってみれば、そこには本来世俗的執着があってはならないはずで、あの石窟が崩れて無くなっても、諸行無常であるかぎり、仏教徒には痛くもかゆくもないはずだからだ。
こういうと、他の宗教はどうかという話になるが、これは、塵芥になってもならなくてもこの世での価値に頓着しないのが仏教だ、という前提でのお話し。だから、あれを残すことに血眼になるのは旅行業者か学者たちくらいである。
もし、衆生のうちから「残してくれ」という声が上がるのだとすれば、それは無論、潜在的観光客に相違ない。

だが、個人的には奈良の仏閣が好きでたまらない。だから、仏教徒にはなれない。
幼い頃、遠足でもないのに一時間の電車を乗り継いで、画板と画用紙片手に独りで絵を描きに行っていた。
感傷ではなく、あれはとにかく美しいのだ。

今残る遺跡や町を遺産に残すのに、人は死んでいく。
「世界遺産」は、芸術学的見地からして非常に正当な、そして、観光経済的見地からして至って効率的な運動である。

関係ない話だが、この夏、私はペテルブルクに二日間滞在した。
覚えていることと言えば、無論遺産のことではなく、十五年ぶりに再会した友人と中華料理店で大酒を食らい、酩酊状態で、彼が社長を務める日本文学関連の出版社へ彼の奥さんに会いに行き、その後、あるいはその前であったかはもう定かではないが、新調したばかりのズボンをゲロでドロンドロンにしたこと。そして、一緒に同伴していた女の子には愛想を尽かされたこと。
そこに私の見たのは、活発に消化を助けてくれた後の胃酸ばかり。
こっちの方がよほど珍しいので、今度観光用に携帯するのなら胃カメラだろうか。

ちなみに、私がその町で見たのは、空き瓶を拾い集める老女たちばかり。
これは無論、感傷のかさぶたにすぎない。

2006/10/01

人は給食のために生きるにあらず


例えば、実存をめぐる不条理(自分の生の意味を推し量ろうとして、結局死の意味をもそれに対置させねばならず、結局は問いそのものが変質してしまい、常に袋小路に陥るしかない「生の問いかけ」がもつ条理)を、「生んでくれと頼んだ覚えはない」という格好の非論理をもって親にすごむ子供は後を絶たず、その生命力はゴキブリのそれに等しい。自らの実存を楯にする現代人だが、子供でいるうちはまだその幼稚な論理を玩具にして遊んではいられるが、成人して烏色の硬い羽を生やしてしまうと、自活のために餌を求めて地を這い回らねばならない。だから、普通は早々に上のような幼虫的論理は卒業するものである。

今回は別段、生命の尊さを論じようと思って書いているのではない。ある問題の実態について知りたいのだ。
それは、給食代を払わないガーディアンたちのことだ。
この報道の前面には「支払い拒否」ばかりが出ていて、果たして拒否しているならば、その子息たちに弁当を持たせているのかどうか....

いずれにせよ、現時点ではこれだけで言語道断とは言わないでおくが、「拒否」の「論理」は多分、「NHK受信料」とかの問題と同じなのだろう。

「水道を引いてくれと頼んだ覚えはない」とは誰も言わない。
しかし、支払いを拒否し、その肩代わりを教師のポケットマネーに頼るようなガーディアンをもつ子供は、これをどう見ているのだろう? 
きっと同じような、でも少し視線を変えた論理が飛び出すはずだー「日の丸弁当ばっか作ってくれって言った覚えはない」

2006/09/29

パツキン


金髪議員...、どうだっていい話、ではある。
下品だが、日本人は金髪に弱い。それと、ピンク色にも弱い。
色町に行けば、この二色がオンパレードなのは理由がない訳じゃない。
この色にはどうしても燃えてしまうのである。
しかし、国会ではいけないということで、ノンという。
だが、黄金というのは富の象徴、つまり、豊かさの証で、何も最初から悪い色ではない。
それとも、駄目だって理由が、子供が真似するってことなのだろうか?
もし、そうだ、というのなら大間違いである。
代議士の真似をすることのほうが、今の世間では人徳に反していることで、
そんな連中の真似をしてるといって、精々仲間からからかわれるのがオチというもの。
したがって、中高生の茶髪・金髪防止策として、是非とも代議士連には率先して毛を虹色のブリーチに染めてもらわねばならない。

どうせ色に拘るのなら、ついでに国連平和維持軍は玉虫色にしてみよう。
ちなみに、自動小銃の配色はピンクでお願い。

2006/09/28

「向うが先に悪事を仕掛けてきたことゆえ...」(メネラーオス)


ささ、皆さん集合、本日より首相就任会見の揚げ足取りの始まり。

いかにも、御仁、先生、諸君、紳士淑女に皆の衆、「思います」というのは世の常、人の常ではござりませぬか。
自信の在る無きかかわらず、「思います」というのであれば、いやそれまでのこと。その御方はそう「思っている」のですから。
「しっかり」という物言いも分かってあげぬとは、それはいかにも不憫というもの。
精一杯の言葉ゆえ、美し・いつくしき「シカリ」との言の葉ゆえ、慈愛をもて見守ろうではござりませぬか。
それでも駄目だというのであらば、実験をしてみても良かろうもの。

すべての「思います」を「存じます」と入れ替え、はたまた、あんこたぷりの「御座候」でも構わない。
あるいは、ペダンチークな調子に替えて、「...だ」「...ならない」「...にしくはなし」「...あれかし」としてもよい。
より奇天烈さがお好みとあれば、「ぶら下がり」の時、画面に毎回映る首相用に「鼻毛・鉢巻き・腹巻き・ステテコ」半透明スクリーンをかぶせて、語尾には「...ナァのだ」「...でイーイのだ」という声を流してみる。そして「シンゾウに毛が生えた」という1秒ごとに点滅する効果的テロップ。

きっとこれで、にわか保守派は震え上がること間違いなしナァーのだ。

2006/09/27

禍々しい日本語


「美しい日本語」促進計画案に関する追記
ー「日本語」科目のビデオ教材には駆除・殲滅すべき禍々しい似而非日本語のサンプルとして「子亀」アンド「親亀」の大阪弁。これは喧嘩のときも、決して相手に殴りかかることなく、願わくば「いつくしき」ヤマテコトバで相手を痛罵するためである。

エスティック・モノノフ


近代教育における「非国語」が国家戦略上位置づけられるのはおそらく19世紀後半あたりのことで、いわゆるそれまでの伝統的「古典教養」がもつ学問的無用性から脱却して、いかにも合理的な視点から導入されることになるのがヨーロッパ近代語である。外国語教育については、本来それが近代国家の産物であるということと国家経済の効率性を結びつけずに考えることは出来ない。例えば、外国語オタクというのはどの時代にも存在するが、彼らが非効率な存在種、つまり生産性に乏しい人種であることから考えても分かるとおり、金持ちであるためしはおよそなく、国家にとっては多分にその存在さえも眼中にはないものである。いかにも、国家にとって国語も含めていかなる言語なども本来は道具の一つに過ぎず、したがって、その普及力とヘゲモニー維持において秀でている言語はとりわけ崇拝されるべき存在なのである。日本語を(そして英語も)まともに喋れない日本人と流ちょうな英語も日本語も話せる日系人とを比べてどちらが道具として使えるかと言えば、当然後者であって、海外において国家を代表する企業が欲しがるのはまさしくそういった道具である。

ところで、「ゆとり教育」ならぬ「さとり教育」という蓮池を出たかと思えば、今度はエスティックブルーのもののふ(Mononoff, Minister of Gaya Sciencia)が新たな具足(=英語必修化)をかなぐり捨ててもよいと言い出した。この政権は美学の祭でもやろうというのだ。あるいは、この先には全世界日本化計画でも推進する気なのだろうか。私が提案したいのは次の点だ。
 ー先ず、国語の古典語教育はこの際止めること。その代わり、「日本語」科目を導入し、作文(表現力・思考力)・リスニング(集中力と忍耐力)・講読(分析力)の三つに下位区分して週10時間の授業を行うこと。こうすれば、どのアジア諸国にも負けない美しい国語を話せるようになる。
 ー当然ながら、ここにはドロップアウトする学生も出るであろうから、その救助策として彼らには、「美しい日本語」を話す東京山の手地域の高級住宅地でホームステイ(事実上の家政婦)を義務づける。「美しい日本」の私たちのためなのだから、決して「箱根より先」に彼らを送り出してはいけない。これは場合によって、ニート対策にも一役買うだろう。
 ー日本国民は五年に一度は「美しい日本語」能力試験を受験すること。不合格者には社会奉仕活動に従事させるか、月給20%分の罰金を科すこと。この収益は年金を賄う財源となり、国庫を潤すことが出来る。

以上