2009/06/16

JKBSK(自己分析)


われわれの時代を分析できるのか。また誰にそれが出来るのか。

ひとつ前のポストでコメントの話をした。

コメンタリーが”人間的”文化の動力を支える本質的問題であると述べた。
また同時に、その動力を生み出しているのが必ずしも生への意志だけではないことも述べた。
時代は常に自己分析をする。それがコメントであり、自己言及である。
例えば、メディアの命脈はこの自己言及にこそあり、その自覚があるからこそ命脈は保たれる。
さもなければ声は容易に怒号と成り果て、無責任な呟きへと縮んでしまうものである。
そんなことは誰もが知っている事であるが、それを知識として知っていても、体にまで浸透していないことはよくあるだ。

コメントは書くことである。しかし、それを書く時には書く当人は聞いている。最初に聞く人間である。
書くと言っても、これは声である他ない。さもなければ、誰にも聞こえないし、聞いてもらえない。だから、声に他ならない。

自らの挙げる声に耳を傾けない時代、あるいは、そうしようと思っても聞こえない時代というのがあるとするなら、
その時代は最も(既存の)文化に従順であり、図らずも耳だけの時代なのである。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、自らの声に耳を傾けないとなれば、そこに先ず最初に輪郭をはっきり表すのは自らの声を聞いていない人間の耳である。

それは、皮肉を込めて言えば、墨で書いたお経を体中に纏いながらも耳だけは無防備に残してしまった”芳一”の如く、聞く耳を持てなくなる耳だけの時代である。つまり、耳だけが残る。声を張り上げる事だけに賢明な人間たちの無数の耳だけが取り残されて行く時代である。

そこには何を聞く事も出来ない耳だけが残る。
文化に従順であるといったが、従順であるという事は自らの内側にしか耳が傾いていないという事、つまり、耳など要らないということだ。そのときにすでに自らの耳は耳ではなく、すでに人に呉れてやった体の一部に過ぎない。耳はオブジェ化するが故に、誰に呉れてやっても惜しくないのである。文化は耳よりも声を大切にするものであり、それが声の防護壁を作る。

耳の発生を考えてみよう。
耳が聞こえるのは声があるからであって、耳があるから声が聞こえるのではない。このプロセスが逆転してしまったのは、耳にふたをすると聞かなくてもすむという技を知ったからに過ぎず、最初から耳があったわけではないことを考えれば容易に分かる。もう一度いうが、声があるから耳にはそれを聞くという機能を担うことになったのである。

コメントというのは、この耳を機能させながら、自らの声を聞き続けるものでなければならない。そうしなければ、その耳は奪われる。つまり、機能不全ということだ。そのとき、惜しみなく自然は奪う。文化が自然に破れる瞬間である。文化と結託していたはずの耳は外的自然呑み込まれ、自然にも文化にも属することが出来なくなる。それが惜しみなく奪われるという意味だ。

最初の問いを少し変えてみよう。自己分析は可能なのか。
結論を言えば、一つの条件を満たせば可能であろう。
それは、耳を自らの文化に隷従させないことであり、自然に還らせないことだ。要するに、常に手入れしておくことである。

2009/06/11

Dysentary OR Commentary

今日は「コメント」について考える。予め申し上げれば、楽しい考察ではない。

コメントはコメンタリーと基本語義は同じなのだろうから、commentaryというのが元の語だ、きっと。
少し気になるので辞書を開いて確認してみた。
ラテン語のcommentarius「注、注解、解説」のような意味だ。
つまりは、テクストという言語化された思考に対して付加されていく言葉、てなほどの意味ってこと。

文化のある世界には日々コメントが数多く生み出されていく。今、ここで起こっているようなことだ。
文化こそは自らにコメントを加えていく装置である。
文学研究然り、精神分析然り、すべて他者の言語をめぐるコメントであって、まさにそうすることによってコメンテーターは自己に気付き、失望し、落胆する。それに終わりはなく、またしたがって、あまり気持ちいいものでもなければ、必ずしも精神的に健全なものではない。ただ、それを端で見ている人間にとっては豊かな財産となるものでもある。

コメントのあるところには文化がある。動物に文化があるという霊長類学者はいるだろうが、それとは大分違う。
善し悪しに関係なく、コメントは文化を目指し、そしてすでに耕された土地をまた再び改良しようとする。ただし、改良というのは言葉の上での話で、実際には改悪されることも十分あり得る。その理由は後述する。

インターネットは文明の発明であって、上に行った意味では何ら文化的産物ではない。
コメントを保存したりすることは出来ても、また、インターネットが文化の形を変化させることがあっても、文化を創ることはない。
語弊があろうとも、そうなのである。インターネット文化といってみても、それはインターネットが文化の代替であることを意味しないのと同時に、最後まで媒体であり続ける。なぜなら、インターネットは単純に、コメントなどを必要としていないからだ。そんなものがなくても存在することが出来るからだ。

文化は死を目指す、というか、死に根ざしたところがある。
いかに逆説的であろうとも、情報の保存という営みは、裏を返せば、それが死と隣り合わせであるから生じる挙動だということを証明している。文化主義者というのが一体何かということを考えると、生がこの死と隣接したものに過ぎないということを知っていても黙っていることにあるのだろう。改悪された文化とは、生に偏向したコメントしか生み出さない文化のことである。それは、自らの言葉がすでに他人の言葉であることを知らないコメントであり、言葉が鏡面であることを知らない人間がそれを生み出す。そこに豊かさは生まれず、貧しさばかりが増殖していく。個人の言葉はいずれ朽ちていく。場合によっては瞬間的に消えていく。その代償は様々であるが、いずれは消え失せるのである。そこまで辿り着くことを知っていながらそれに思い至らない言葉たちは、しっぺ返しを食らい、未来の肥料となることすらなく蒸発していく。

生と死の両価的な現象として文化。日々、衆生的コメンテーターの言葉に一切の感慨を覚えないのは、彼らの目には死が映っていないことが理由かもしれない。文化がなければ、死は悲しいことではなく、生も喜ばしいことではない。死をあるいは生を悲しくも喜ばしくもしているのは、装置としての文化が機能している限りのこと、つまり、死の悲哀や生の歓喜を再生産しているからなのだ。

2009/06/07

冷めた食餌

ガボン大統領死去のニュースを何の感慨もなく紙面で読む。この感慨のなさは殆ど病に近いのだが、今日の話は現代の病理についてではない。至って身近な話、「家事」である。

現代政治の流れは”民主的なもの”、あるいは、その保守に結びつけて考えられることが多い。それに反するものはどのような場合であっても”反動的”であるとして忌避される。保守は現在時への繋縛傾向が強いにしても、反動とは呼べず、伝統主義と名づけることもまた正確さに欠ける。安定を目指すとすれば、いずれの政治的態度においても「家事」がすべてを決定していく。収支、借金、赤字の家政学がわれわれの行動全体を支配するのである。この支配を逃れる術こそは、独り身の孤高なのだが、共同性を排除することからくる生の不確実性まではこの孤高も排除することは能わない。

上に述べた意味で、つまり、「家事」の術を操るという意味では、民主的であることも保守(あるいは反動)的であることも互いに矛盾するものではない。では、「世襲」というのはどういう位置づけが出来るのだろうか。「家」という制度は定義上、家の世襲的性格によって維持されるし、男系であろうが女系であろうがその性格を失ってしまえばすでにそれは家ではなく、ただの人間の集まりに過ぎない。あるいは運命共同体と言ってもいいが、その呼び名は重要でないし、その価値についてもここでは問題ではない。世襲によって何が守られているのかを考える必要があるのだ。

世襲禁止というのが現国政の焦点となりつつある。その議論の始点は恐らく、世襲そのものが本来的に持っているかのように見えてしまう「反動性」あるいは「保守性」を目の敵にしたところにあるのだが、政治をその「家事」的性格から見た場合、世襲的であることを果たして避けることが出来るのだろうか。政治は支配するものであり、またその支配から逃れることによって別の支配を作りだす運動である。「家事」の放棄は支配の放棄であり、支配の放棄とは自発的に隷属化することを意味する。

世襲について考えるには政党についても考え及ばねばなるまい。革新的とされる政党が挙って世襲を禁じる姿勢を見せているが、果たしてその挙動の一体どこが革新的であるのかには疑問を持つことが必要だ。政治家の世襲を禁じるとしても、そこには必ず支配持続の運動が必要とされるのであり、政党というのは政治運動化された「家」制度として機能している限りは、また世襲政治の欠落を補完しもする。世襲批判の一貫性の無さは、原理上支配維持の原則からは逃れようのない「家事」的性格を政党もまた持たざるを得ず、それは同時に「世襲」的であらざるを得ないということを黙っているところにある。

さらに、世襲政治家に対する批判以前に、一番の問題はどこにあるかと言えば、それは選挙時における有権者の選挙行動である。この最も手垢に汚れ易い政治行動がすべてを決定しているのであるとすれば、世襲批判以前に、政治運動の大衆化がいかなる功罪において判断されなければならないのかを見極めねばなるまい。罪の部分には迎合しかり、ファッショしかり、あらゆる大衆化の危険が潜む。家事については人間のみならず、昆虫もそれなりに営んでいるものである。大衆意識が末端肥大化しても昆虫の家事であれば、世襲であろうとなかろうと、頭脳組織は針の穴ほどもあれば十分過ぎるくらいなのだ。

国政は民が昆虫になればなるほど楽なものであり、世襲の問題などはこれっぽっちも重要でない。それは諸々の結果に過ぎない。こんな冷めた食餌では誰も喜びやしないのである。

2009/06/02

アウクツィオン「道」(1993)

Pereat vita...

二つのことに気づく。

人には気質というものがある。私は血の気が多いほうではなく、鈍重というわけでもないので粘着質でもないのだろうが、鬱々といった気分が支配的であるわけでもない。やはり、気難しいといったほうが正しいのだろうか。そうなると、いわゆる”黄胆汁”の気質なのだろう。

少年時代は昔は血の気が多かったほうだと思う。転校生だった僕は、いつもポケットに尖った石を忍ばせ、いつ来るか分からぬ仮想敵からの保身に備えていた。というか、母親の話ではそうだったらしい。勉強もそこそこ、運動は学年でもピカイチ、と言えば、今ではどこか嘘っぽいのだけれど、運動は万能だった。ドッジボールをしても絶対にあてられることがなく、どんなボールも今思えば神業としか思えぬこなし方で捌いては、必ず最後の一人になるまで粘った。

そんなある意味幸福とも呼べる少年時代が音もなく過ぎると、一気に舞台の照明は暗転する。何が変わったわけでもないが、膨らみかけた少年心理は内向へと傾く。スポーツからもほどなく離れ、音楽が僕を支配する。流行りの音楽もそこそこに、二十年以上も前の舶来ポップスを一心に聞き、分かりもしない英語の曲ばかりを聴き始めた。もしかすると、この頃が最も自分にとって幸福感を実感出来ることの出来た時期だったのかもしれない。本当に一心だった。

今振り返ると、自分が何をやりたいかなどと考える暇などなかったと思う。そもそもそういった問いは文字通り暇な人種にしか、あるいは、意識が散漫である人間にしか生じることのないものなのかもしれない。こういうと叱られるかもしれないが、きっとそうなのだ。仕事もしかり、一心に何かに打ち込んでいる間は、問いは生じない。これが可能になるのは、問いを提示することを生業とする職業か、さもなくば、それに憧れているだけの凡庸なる俄哲学者においてしかない。

だれも、かっこのいいことには憧れる。マーケットに溢れる哲学書に耽り、日常を批判する哲学者を知って、その勢いでというか、その戦略に嵌ることの何と多いことか。僕には苦手である、そういった日常批判に自らの日常を批判せぬま飛びつく連中は。ハイデガーはそれなりに尊敬はするが、その後に連なる輩どもは、どうみてもネオナチに見えて仕方ない。話が脱線した。今日はどこか脳の奥と指先がおかしい。

二つのことに気づいたというのは、次のようなことだ。

先日トイレの水が止まらなくなった。そこで徐にタンクの蓋を持ち上げ、中の水量を確認する。異常はないかに見える。しかし、水はいっこうに止まる様子を見せない。そうしていると、見る見るうちに水の嵩が上がり、かろうじて配管口から水が流れ出していたので、外に溢れ出ることはなかったが、どうしても水量調節が分からない。そもそもトイレの仕組みを知らないからだ。よく見ると、トイレタンクの仕組みが至って単純であることが分かった。水嵩の上昇に合わせて、調整弁と連動したブイが持ち上がる。すると、最後まで持ち上がったときのブイの角度で丁度調整弁が閉まる仕掛けになっているのである。そうなるともう、水は出てこない。ブイは水面に浮かんだ状態で、流水口を調整弁で閉じるのだ。トイレの水が止まらなかったのは、問題のブイがネジ式で取り付けられている部分から緩みだし、知らぬうちに外れてしまっていたらしいのだ。それが分かると後は単純。ふたたびブイを所定のメス部分に捩じ込み、正常な状態に戻った。ここにきてはじめて気づいたことを述べる。私にはこの自分の分からないものを一から点検し、問題の原因を探り出し、果てはその未知であった仕組み全体を解明し、なおかつ問題を解決するという「修繕」の本体に異常に心惹かれていることに気づいたのである。

以前からマニュアルを読むことがない私だが、そういった人は多いと思う。それは面倒であるとか、そうするに及ばない、と色々理由はあり得よう。しかし、私の場合、マニュアルを読むと楽しみが半減するという意識が常にあった。未知のものであればよいのを、わざわざ解説してもらってどうするのか、という意識だ。ただ、こういう意識はときに裏目に出てしまうことがある。職業的ではないこういった態度は、例えば論文を書くなどという作業では禁物だろう。私自身による解決だと思ったことが、すでに世に出て久しいありきたりな解決案だということも生じかねないからだ。いわゆる、井戸の中の蛙状態。

もう一つ気づいたこと。

これは手短に書こう。
最近のことだ。私は教育者という立場で職場を毎日点々としている。意識はしていなかったが、それが私の外面的な姿であり、また要求されることでもあった。もともと、教える能力に劣等を感じる自分は、なるべくそういったことを考えないよう務めてきたこともあり、自らの職に対する気負いといったものも特に感じなかった。しかし、今日、自分が教育者として自覚し始めていることに気づいた。これまでならば、それはとてもあり得ないこと、常に学ぶ者という姿勢を失いかねない危険な自覚ではないか、と常々警戒していた。ところが、年月は人を少しずつ浸食するのである。あるいは、私自身がこのような警戒心を自ら浸食し始めているのかもしれない。

「修繕」と「教育」。この二つにはどんなつながりがあるのだろうか。前者は過去への執着を示しつつ、いつでも朽ちる可能性のあるものを現在に従わせる。後者は現在を素材とみなし、そこから可能の未来を彫琢する。過去と未来の狭間にあって、その犯すべからざること、犯罪的であることは、過去と未来を現在に還元し尽くし、それを静観する態度と言えばいいのだろうか。言葉はこれ以上尽くさないが、多分その辺のところを考えておけばいいのだろう。今を永遠として。

2009/05/24

オルゴールの戦慄

先ず想像してみよう。
突然、自分の体から無数の突起が浮き上がり、見る見るうちにその体は円筒状になって、その回転とともに突起を小さな舌で一つずつ爪弾き始める...。

今、大学でゴーゴリの「狂人日記」を読んでいる。
今日の授業で読んだのは「脳の在処』に関する箇所だった。

「人は脳が頭の中にあるって思っているようだが、実は、脳ってのはカスピ海方面から風に乗ってやってくるんだ」

9等文官として役所勤めする主人公ポプリーシン。本当は貴族の出なのに、どうしてよりによって自分は書類の抜粋だの清書だの、上司の羽ペンを削るだのと、どうでも良い仕事ばかりしているのか、否、本当は中の下の役人なんかじゃなくて、スペインの王なんじゃないか、と考え始めるシーンである。

文学作品に表現された「狂気」などと一括りにしてしまうと、大した実感は得られない。そもそもどんな文学作品を読んでも、読み手はすぐネガティヴな想像力を起動させてしまうので、ついつい「狂気」みたいな言葉を軽はずみに使ってしまう。実はもっと、この「狂気」じみたことというのは日常に転がっているに違いない。それを今日、僕は実感した。

僕の住む家は、日本には珍しく、細い道を挟んで立て込んた軒並みがまるで中世都市の深い迷路のような場所にある。つまり、家自身が巨大な迷路の壁を作っている。その道を挟んだところに一軒の家があり、授業からバイクで家に帰ってくると、そこから女性が顔を覗かせていた。ご近所なのでご挨拶をする。それを特に嫌がる理由もないからだ。

井戸無しの井戸端の話が始まる。

ただ、その話の雲行きが怪しいことに少し気づく。何ヶ月も話をしていなかったので、彼女の風貌にどこか老けてしまったところがあるのにふと気づくが、最初のうちは、さもありなん、以前はこめかみ辺りの白髪に気づかなかっただけなんだろう、と思い直し、また話の軌道に乗る。いや、その振りをした。

”先生は頭がいい人が就く仕事、給料は高かろう、否、初任給程度、家賃はいくら、こんだけです、いやいや、まさか、いやホント、定職にあらず、おたくの家の家主はゴミ会社経営よ、前の住人はそこの雇われ人で、あんたの仕事は肉体労働とは比べものにならへん、うちの亭主も肉体労働もしてて...で、ところで、おたく家賃はいくら、こんだけです、ほお、で、おたくの家主はゴミ会社経営でね、前の住人雇われ人...。”

「え、待てよ...これはスパイラル・トークだ。」(僕の内言)

自動機械というのがあるが、これは一定のアルゴリズムに従ったプログラムによって稼働するものだ。つまり、からくり。人間との違いは、このからくりを意識出来る能力を持っていないことだけで、他の点では似通っている。ただ、人がこのからくりで動いていることに気づいていない時、それを端で見る人間は「戦慄する」。

喩えはオルゴールでも構わない、音の小箱、ミュージックボックス。
旋律が自動で奏でられる。聞く者は少しもその自動旋律に戦慄したりはしない。言葉遊びが過ぎるが、人間は普段、随意の旋律を奏でるからこそ戦慄しないでいられる。ところが、突然、今日起こったような不随意の旋律が聞こえてくると、戦慄してしまうのである。

もう一度想像してみよう。
突然、自分の体から無数の突起が浮き上がり、見る見るうちにその体は円筒状になって、その回転とともに突起を小さな舌で一つずつ爪弾き始める。

これはいわゆる「不気味なもの」のことだ。誰でも知っているつもりでいるものだ。しかし、日常にこれが溢れ返るようなことがあるとしたら、人は多分まともに生活することなどできない。

2009/04/28

禁止してはならない


道路を歩いていると信号無視をする人が少なからずいる。 私も時にはその一人となる。 急いでいるからとか、待つのが面倒だからとか、色々と理由はある。 禁止というのは、その「色々ある」というところに一切理解を示さないところに始まる。 もし、その「色々あるわよね」という相槌を一々打っていたなら、禁止は成り立たない。 禁止の目的として、制御する、保護する、規制する、として色んな理屈づけはあるが、要は、「事情」を理解しないところにすべては始まる。 あるいは、インフルエンザに罹ったといってマスクをしてみる。皆に迷惑をかけないためだ、とか。 あるいは、道ばたで殴られたけど、俺はプロボクサーなので殴り返さなかった、とか。 この禁止、フロイト風にはこの無理解を、「自我」を乗り越えたもの、つまり「エス」という訳だが、どうもこの個から超個(公共性)への一足飛びを鵜呑みにするからこそ、共同体はそれ自身であり得るようだ。 でもやはり、「エス」だとか言われたって、急いでいる人間にはそんなことお構い無しである。どれほど危険であっても、だ。その時、この個は超個の網からはみ出していて、その後でまた網に戻ってくる。 これを他の個もおっ始めるとどうか。 歯止めの網は網でなくなり、緊密に縒られていた糸は解かれ、仕舞いにはバラバラとなる。 共同体の危機、社会の危機、堕落、モラルハザード...まあ、色々な言い方で呼ばれるのは、要はそういった状態のことを指している。 最初から大きな「エス」が実はあるのではなく、個それぞれに超個は備わっている。それがフロイト的なエスなのだが、そのコントロール能力は絶大で、むしろこれが無ければ社会など最初から成立していない。 ただ、人間的個を集団が育んでいくに従って、個は人間性を、集団は社会性を帯び始める、というか、それを求め始める。養ったその見返しにという理屈だ。そして、そんな見返しなどヤナこった、と突き返して超過する個は、その存在そのものが何かはみ出したもののように見えてくる。つまり、邪魔なわけだ。 そして、次がトリッキーなのだが、この歪んで見える個を人格として認めてやるのが父なる法であり、また同じことだが、部分と全体のそれぞれが持つ「エス」のあいだに楔として打ち込まれるのが法である。 逆に言えば、歪みを補正するという意味で、社会全体の歪みをむしろ表面化させているものこそが「法律」だと言える。 健康増進法(?)だったかどうか、名前をはっきり覚えていないが、これなどもそうだ。 どれだけ長寿の国であろうとも、その内実が透けて見えてくるではないか。 早く死なせてやればいいところを、不随意に生かし続ける病院、またその病院の病疾的体質... そんな国、少しも健全な国ではないし、法律で増進するわけが無い。 このような我らが父なる法は、死に際の何たるかを考えていないようだ。 とにかく、健康増進という名前自体、死の隠蔽すら感じさせる。 いや、もしかすれば、この法の隠蔽しているものは、自らの精神の死なのではなかろうか。

2009/04/24


今、机の両脇には本の束が山を作って、視界を邪魔している。実は、家内が実家に帰ってからほぼ一週間が過ぎてから、そろそろ良かろうと、”ハメ”を外したからだ。

ハメ外し、つまり、本の購入である。

本当ならば、ハメ外しというのはそれなりに愉悦を伴うものであるはずが、私の場合はどうしたことか、自ら抑圧に手を染めてしまうのだ。読むかどうかのあても分からぬ古本を、決まってこうどっさりと買ってしまうのはもはや一種の軽い病疾なのだろうが、それでも本は止めるわけにいかない。

「書きあぐねている人のための小説入門」という本を昨日から読み始め、同時進行で「感動の幾何学」という変な本を片手に置いている。別に、小説家になろうというわけでもない。むしろ、なぜ人は書くのかということがここ十年以上私の頭から離れない、自分でも奇天烈だと思う問いに苛まれているからこそこんな好事家の本を読むのだが、だからと言って、自分を好事家の類いに分けている訳でもない。

どちらも文学者の手になる本なのだが、かたや研究者としての文学者の本、かたや純粋に小説家の本。二冊を読んでいてやはり小説家の書くものの方が説得力があるのはどうしてか。素直ということか。

研究者にもよるが、型にはめていく書き方はどうも読んでいるわれわれを誘導しているのだという意識を与え過ぎてしまうのだろうか、読んでいてあまり心地よくない。退屈ですらある。研究も創作も、私にとってみれば、読ませるという意味では全く同じもので、こんな発見があったんだよ、という発見の経緯を説明されても仕方のないことで、むしろ、読書という行為そのものが発見であって欲しい。

「書きあぐねている...」を書いたのは保坂和志氏だが、彼の本は何冊かすでに読んでいる。ただ、読んだ本のいずれもが小説ではなく、小説家はこんなことを考えて小説を書いていますよ、的な本ばかりで、実際それが面白かったものだから、小説の方を注文してもあまり読んでいない。本人には悪いのだが、小説をこう書いているんだ、こうは書かないんだ、ということを読んでいる方が面白く感じてしまう最近の私には、小説一般の善し悪しはもうこの際どうでもよくなっているのである。

保坂氏曰く、「小説を書くこととは最初に解決不可能だと思うことを提示し、それを解くこと」だという。

人間がモノを書くという営みに興味のある人間にとって、作家自身が上のようなことを言うのを聞くのは大変面白い。作家も人間であるのだという最初の問いの前提に引き戻される気がする。作家は問いを立てるだけではないという、あまりに当たり前のことを忘れていたのだろうか。

「作家」という奇妙な日本語。近代のいつ頃から流通しているのかは寡聞にして知らぬが、私などは例えば小説が常に一種の問いかけだと考えていたものだから、自問自答の形式が作家の存在様態であるということ聞くのは、変な話、意外ですらあった。つまり、小説は読まれなければ始まらない、という一種の先入観が私にはある一方で、誰に読まれなくともそれはそれとして存在するのだろうというアウトサイダー的発想が常にあったのである。書いたもの(書くという思考)を読んでもらう、また、書くことを思考の片鱗として現わす、ということをもう少し突っ込んで考えねばならないのだろう。

2009/02/23

不妊官僚



バチカン観光から数日が経った。

何も新たしきことは起こっていない。
最初から仕組まれていたことだと勘繰る輩も多い。
この手の騒ぎ、スキャンダルにもならぬものの裏を取って記事として配信する通信社・新聞社は恥を知れ、と言わねばならないが、まあ、この際どうだっていい。

しかし、だ。
以前にも書いたことがあるが、大臣とは、文字通り、臣の長の謂であって、いわゆるsubjectの親玉である。
このスブエクトゥムの中にはヒエラルキーが当然のように生じて(上下スライド式の階段)、皆は梯子を踏み外さないようじっと固唾を呑むのを常とするのである。

年功序列はその年齢を基準とした同型システムで、儒教思想がどうのこうのという以前の話として、家長に対する家臣間の摩擦を最小限にするための、至って簡易な階層システムなのである。これが合理的であるかどうかは、また別問題だとしても、そこに個人の意志を膨張させる思想は極力最小限に抑えられねばならず、したがって、儒教とはその集団的合理性の結果産み出されてくる副産物にすぎない(無論、孔子が放浪する呪術家であったという説[白川説]もあるので、これだけでは収まり切らない話だが。ただ、集団的生の記憶を連続させて時間サイクルをそれなりに巧妙に社会システム化しているがため、儒教的社会は一気に破綻することを免れているし、またそれを破壊させることも極めて困難である。

今回起こったのはまさに、邪魔な奴の梯子の桁を鋸でこっそり切り落とし、ナラクに落ちるのをそのまま傍観するというほどのことにすぎない。何も陰謀があったなどといったことではない。これなどは日常茶飯事的(システマティック)なことであり、しかも、現代日本官僚ならば当然黙認する手段だったのである。あるいは、われわれもこれ以外の方法がなければ消極的にせよ採用するライバル消去法である。イジメもこれと構造的にはまったく同じである。

こう考えてみると、非常に象徴的な事件であったとも言える。
つまり、国益という点から言えば、現代日本の官僚システムは、仮想的主権者が最後に登り詰めたところにあるはずの国益に到達する桁などそもそも存在しない無窮の家臣団梯子だということである。

単純な話、国の恥というのはこの際どうでもいいことである。(たとえば、集団的自衛という言葉の意味も本当はここから考えてしかるべきであり、これなどは、最終判断・決定を行えるものがどこにいるのかという問題を、「恥」だの「国辱」だのといった情緒的な言葉で粉飾しているのと同然なのである。)

高級クラブマン=官僚はこの手摺りなし階段に足がかかっているあいだは少なくとも、国益を優先するという建前(クラブ会員権)を手放すことはないが、少しでも足を引っ張る奴がいれば、それが大臣であろうと誰であろうと、お構いなしにパージを開始し、束の間スポットの当たった政治家人形を再び舞台袖へと追い返す。

ちなみに、蟻の社会と人間社会の社会的特性の違いとして、不妊カースト(繁殖行動を起こさない階級)の存在が挙げられるそうだ。これが現在では、蟻社会の社会性を新たな定義となったことにより、統率者、つまり、最終決定権を有する者の存在は蟻の社会性の定義からは余剰とされるようになったという。しかし、この蟻の社会性特徴は上に挙げた官僚梯子の比喩と恐ろしいまでに似ている。人間社会の一般的な社会性特徴とは区別されるはずのこの不妊カーストこそは、われらが家臣団ではなかろうか。あるいは、それよりもひどいかもしれない。無窮の梯子に身を寄せて、実際には何も決定することがないし、出来もしない。女王蟻のお産を分業して助けるといいながら、最終的な責任をとらないのだから。これが、不妊官僚である。

2008/06/13

鼻風船


「モンスター」という言葉について。

今日は先ず最初に、次のことを確認しておこう。
英語などの外来語を流用して、発話しようとする言葉の本来もつ力や勢いを和らげるという発想が日本語に存在することは恐らく間違いない、といってよいだろう。当てずっぽうではなく、これは言葉の問題である以上、思考の問題でもあるからだ。もっとも、日本語「的」発想が問題なのではなく、日本語の発想が問題なのであり、日本語でモノを考える日本人の固有の問題である。

さて、本題である「モンスター」という言葉である。

この言葉に「ペアレンツ」をつけて使用する連中は、このペアレンツを「化け物」と呼ぶことで、彼らを鬼に成り下がって深山に隠れていたはずの元人間、つまりは、本来はまともな人間=社会人たちとは一定の条件がない限り交渉してはならないはずの、出来損ないだとみなしている。

だが問題は、これを「社会問題」とまで呼んでしまったということにある。というのも、この親たちの世代を暗に出来損ないを多く含む、反社会性の強い世代だと言っていることにある。世代論というのは眉唾でもって聞いておく必要がある。というのも、世代は常にその上下に連動しているからこそ世代と呼ばれるのであり、何も特定の一世代がボウフラのように降って沸いてきたわけではないからだ。その縮図が亀田親子であろうが、これには悲壮感すら漂っている。ただ、次世代に教える教師には正面と反面の両面あるということは確認しておく必要があるし、トラディションという意味で、親も教師も同じ。そこに差異は断じてない。

世代は基本的に酒の醸造と同じ作り方でこの世に現れる。布団を醸造所に持ち込んで寝ずの番をする杜氏と同じようにして、本来は新しいものはこの世に生を受ける。それが、現代はそれに費やす時間を惜しむ。怪物=親はその結果にすぎない。

今の小学生の親は20代後半から30代にかけての連中であるが、ということは、生まれは昭和70年代後半から80年代の連中である。その連中の親は恐らくほとんどが戦後生まれの連中である。連中が大学に行っていたとしたら、その時期はバブル期の前後に丁度当たる。この時期に一番良い思いをしていたのは彼ら自身ではなく、その上に乗っかっていた連中、言うならば、今ここぞとばかりにバッシングしている連中、そのバブルの恩恵を受けていた奴である。それが「社会問題」とほざく。ほお、面白いではないか。

要するに、社会問題化していたはずのバブルを問題とも感じていない連中が色々と記事を書いているのである。社会道徳からのドロップアウトよりも、奴らの倫理的ドロップアウトを糾弾しないことこそが社会問題であろうに。

ここで一句

鼻風船 床すれすれに 垂れ下げて
鬼か 阿国か 夢醒めやらず

2008/06/08

GOOGLE自動翻訳ごっこ


今日はGOOGLEの翻訳機能で遊ぶ。

先ずは、オリジナルのテクスト。
【夏休みちびっ子クイズ大将!】

司会者:最後の問題です。お姉さん、よろしく。

お姉さん:「人類に共通の敵とは何でしょう?」

司会者:答えがわかったちびっ子は鼻に付いている赤いボタンを押してね。

「ピンポーン」

司会者:はい、では、岡山のヒロシ君、答えをどうぞ!

ヒロシ君:いじめ問題だと思います。

司会者:ヒロシ君、残念。いじめじゃありません。もっと、問題はユニヴァーサルだよ。

「ピンポーン!」

司会者:はい、では三重のアキヒサ君。

アキヒサ君:テロ?

司会者:ブー。違うよ、違う。そんなの生易しいもんね。もっと身近なことです。

アキヒサ君:じゃあ、モンモンやくざ?

司会者:あの子、摘み出して。じゃあ、お姉さん、答えをよろしく。

お姉さん:正解は、「死」でした。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
これをロシア語へ変換(ここでは省略)し、さらに日本語へ翻訳。

【夏休みの子供たちちび参謀本部クイズ!】

司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵とは何ですか?"

モデレータ:その答えが見つかったひき生産子供には、赤い鼻のボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山博に、に答える!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:宏ごめん。ミスターいじめです。さらに、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン!"

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しいの" Sします。もっと身近します。
安芸hisa私:そのため、月月-犯罪者ですか?

モデレータ:ことを選んだからです。ええと、お姉さん、ご多幸をお祈りに答えています。

シスターズ:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵とするとはどういう意味ですか? "

モデレータ:ひき生産の答えが見つからないの子供がいることで鼻の赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、宏岡山、その答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月-犯罪者ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、お姉さん、お客様の多幸をお祈り申し上げます答えです。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産ていないと答えて、子供の鼻が赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山宏答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、あなたの姉妹、お客様のご多幸をお祈り幸せに回答します。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産と対応していない子供たちは、鼻の赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、宏岡山答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、お姉さん、お客様の非常に最高の幸福に対応しています。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産を満たしていない場合、子どもたちや鼻、赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山宏答え!

宏君:フーリガン行為の問題と思うのです。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、あなたの姉妹、福祉の回答をして非常にベストです。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
いずれも、最後の答えだけは正しく変換された。自動翻訳、恐るべし。

2007/09/13

Don't make a FOOL of yourself, Free CHINA!

何はなくとも、今はチャイナなのか。
100円ショップがなければ生きていけないわけではないが、ひどすぎる話もある。

先日、トランプをたまたま買う機会があった。
プラスティック製のトランプだ。
安物買いを避けようとしたが、ダメだった。
箱を開けるとナンジャラホイ。
41枚のお出まし。つまり、全部で11枚も足りない。

フリーマーケットでももっとマシだろうと思ったが、
それとも、中国では41枚が正統なカード数なのだろうか。

100円ショップを殿さま商売と呼べないとしたら、これなんぞは足軽商売とでも呼ぶのか。

ちなみに、ジョーカーはしっかりと二枚揃い。
すっかり担がれたぜぃ。

2007/09/01

人は悪ゆえに正気なり


こんな声が聞こえてきそうだ。
「不思議でならないのよねぇ〜。そう、裏金・不正受給が問題になってるけどさ、表金ってのはどうなのよ。
それって、いいわけ? 特定の支援者が払ってるお金って、結局は利益供与に何ないわけぇ〜?」

利益供与とは、商法上の話として考えた場合、総会屋のことがすぐ思い出されるが、赤の他人の人間関係なんてのは、そもそも全て商法的な言葉で片づくものである。つまり、利益不利益のバランスに基づいて人間っつうのは動いている。「金じゃねぇんだよ」との非難もあろうが、利益とは金だけじゃないということを断っておこう。

政治家の裏金とか、不正献金とか、不正受給なんて話が多い。だが、そんなことはどうでも良いと思うべきだろう。
そもそも、政治家は何某かの利益保護を代表する。そこに、裏も表もない。つまり、利益保護を代表する限り、それを貫かねばならない。
「政治汚職」とは、上に言った意味での政治家という職が清貧であるとの幻想の上にしか成り立たない虚言である。
職を汚す、というのであれば、それは政治家業という「業」を全うしていると、私は思う。
思う、と書いたが、それは、その業を全うすることを正しいと言っているのではない。
要するに、政治家は「聖職」ではないと言いたいのだ。

やらせればいい。不正受給していようが、領収書を5回ほど使い回していようが、どうでも良い。
それは政治家職の清貧でないことを彼らが身をもって実証しているのだから。
悪の実証である…悪人正機?(五木寛之じゃあるまいし)

五木寛之で思い出したが、四月の帝国ホテル前ですれ違った。上野公園のジャズフェスティヴァル後の花見のあと、地下鉄経由で六本木を歩いていた時のことである。
悪戯半分で、ロシア語で話し掛けようとしたが、大層べっぴんの編集者風麗人が同伴だったので、止めた。

ちなみに、あの髪型は、闇夜でも絶対分かる自信がある。


「カラマーゾフ、万歳!」

2007/08/24

スカラベの品性

「格調」という言葉を久々に聞いた。
中国からのニュースだ。
またかぁ...とお思いの向きもあろうが、そうではない。
陳腐な「プラスティック・サージャリィ」のお話。

今時は、品よりも品ー物(商品)を売り物にするものであることは3歳の童子でも知っている。
「あれ買って」「これ買って」と泣きつく子供はこの際どうでもよい。
「格調の低い番組」という批判というよりも、中共のオリンピック対策がらみのキャンペーンであろうか。
矢面に立ってあえなく倒れた品に欠けた番組の説明をするつもりは毛頭ない。
ただ、二、三点言おう。

モラル向上キャンペーンにせよ、”顔面粘土”手術(整形)にせよ、全て「表層」面が問題になっている。
少し前の日本のガングロにせよ、美白にせよ、「見た目が9割」にせよ、”即物的”という老人じみた言葉を使う気はない。
寧ろ、そもそもが「唯物的世界」に人間はどっぷりと浸かっているのだということ、
つまり、意識などは所詮、誰にも知られなくてよいもので、二の次三の次の代物だということだ。
「意識を持て」などなどの黴臭い精神論の古いことは確かだが、
「儲かりまっか」的商人意識を持つ気にもこれまたなれず、似而非サムライ節を吹聴して回る気にも毛頭なれない。

つまり、全ては商売ショーバイであり、生き残るためには整形することも辞さないのだ。
これはとりもなおさず、消費者層にまで降りてきた商業主義的サヴァイヴァルであり、
その時、女はマスクで男を騙し、男は金で女を騙す。至って分かりやすい昆虫の世界だ。

スターの顔は昆虫化し、そのわざと歪ませた鈴虫の声で媚びを売る。
駆け出しの少女趣味アイドルは、その媚態で高解像度のスクリーンを一面ピンク色の春にする。

この時代、太陽も転がさぬスカラベである限り、死の後も再生はない。
それはただのフンコロガシであり続けるのみだ

2007/08/23

日本荒口野朽連盟(荒野連)

「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。

二つの文を比べてみよう。

「審判は絶対的である」(1) 
→ 主語=審判、述語=絶対的

「絶対者は審判である」(2) 
→ 主語=絶対者、述語=審判


(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。

(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。

(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。

Some like it CUT.


日本人は、切られるのがお好き。
だから、切られないと、自分で自分を切る。
正直、現代日本人がサムライ魂という時、両眉の周辺の筋肉が引きつれを起こす。

昨日、またマスコミに小指が届いた。
ご存知の通り、靖国がらみだ。暴挙とまでは言わないが、大概、こういうのを聞くとイヤ気がする。
仲良し公安にでも教えてもらったのか、はたまた、伝統芸なのか。
まあ、どうでもいいが、手にはあと29関節も残っているので、問題なかろう。

これは冗談に過ぎないが、もしかして、指切り芸が達者な連中の指先は爬虫類ほどの再生力があるのかも知れない。
牢屋に入ってからの更正力はなくても、恐らくいくら切っても生えてくるに違いない。

僕にはせいぜい、湯上がりの爪を切って抗議するくらいしかできない。
でも、こちらの方が長続きする。爪だって、元々は指の細胞なのだし。

最後に。
「ラストサムライ」を見て、これのどこが感動する映画なのかと思った。
コメディとして取るなら別だが、あれではほとんどキホーテの世界である。
あれなど、諜報機関の外国人に煽動された顛末を追ったものに過ぎず、どっかで誰かが嘘をついている気がした。
でも、仕方ないか --- Some lie(さむらい).

P.S.: 「お熱いのがお好き」を思い出した。主人公のジャック・レモンがどさくさ紛れに女に変装し、そこで素性を明かさずマリリン・モンローを騙し続けるうちに、彼女に恋するという話。変装と攻略、男と女、外国人とサムライ---記号が違うだけで、モチーフは同じことに気付く。

2007/08/22

アニヤ・ヒドンマーケット


アニヤ・ハインドマーチのエコバッグ完売。私の大好きなエコな話題である。

いつこのバッグが完売になったかなどは知らない。
しかし、日本の代理店のホームページでは「完売」とあった。
エコな時代である。

そもそも、原発がダメだというプロパガンダ以降、図らずも(?)エコ・マーケットは膨張の一途を辿っている。
反原発論者の極論に「どうせ電力消費の大半は東京なんだから、都心のど真ん中に炉心でも何でももっていけばいい」というのがある。
そして、都会人はエコに疎い、だのといった議論になりがちである。農村はそもそもエコなのだと。
しかし、である。東京の人口は、恐らく今では、そのほとんどが田舎者で占められているはずだ。
ドーナツ化の話をしなくても、東京近郊から来る人間の方が、公共サービスをより頻繁に享受していることになる。
どれほど田舎者にエコ意識の高さが見られるかは疑問が残るというもので、一昔前の生活サイクルの話と今のエコの話を混同してはまずい。

昔の農民はエコを相手にしているのであっても、それを儲けにはつなげなかった。
今やエコとはマーケット商品であり、これで商人は財を築くのである。
そこで崇高な理念が掲げられていようとも、それは商人的理念に過ぎず、競争相手も含めた誰もが幸せになるという題目はあり得ない。
エコバッグも然り。

さっそく、プチブルを相手に小銭を稼ごうという人間がオークションという魚河岸でこのエコバッグをさばいている。
9000円程度の値が付いていたが、果たしてあんなロゴの入ったただの鞄を誰が買うのだろうか。

"I'm not a plastic bag."

自然を散々搾取してからに、そのあとはまるで人ごとのように「エコ」である。
その最たる者が自動車メーカーだが、こんな車は売れんだろうなぁ。

I'm not a plastic car, but just drink petronium.

2007/08/20

安全を食わば毒まで


Free China, or China free?

食品安全という見地からか、最近よくテレビでは中国製品を家庭から一掃するとどうなるか、つまり、生きていけるのかという実験をしている。単純な疑問だが、これを中国本国でやってみたらどうなるのか。
無論、生きていけないだろう。
なぜなら、China freeなどは彼らにはあり得ないことだからだ。

ただ、Free Chinaはどうだろうか。つまり、彼ら中国人を低賃金で働かしている外国企業、そしてそれと結託している中国官僚機構から解放するとどうなるか。
これも生きていけないことに変わりはない。

したがって、最初の問い、Free China, or China free?とは、愚問であり、非現実的な問いだということになる。

戦後経ってからのの日本製品もやはり同じく、安物のすぐ壊れるB級品と言われていたわけだが、海外で物を作れなければ、日本人は恐らく不当に高額なものを買わされていたことだろう。中国サマサマなのに、まるで人ごとのような報道が多い。

Made in Occupying Japan