これはロシアで最も有名であるはずの詩人(A.S.P.)の身長である。人は背の高さではない、ということの証であろうか。ともかく、今日はこの157センチメートルのA.S.P.像の周りを徘徊しようと思う。
「ペレストロイカ」の副産物と言い捨ててしまうには惜しい作品であるが、私はユーリィ・マーミン監督がその後に撮った作品を一つも見ていない(2005年10 月17日訂正:この作品の前後のいずれかは不明だが、『パリへの窓』というファンタジーを撮っているのを思い出した)。以前日本で開かれたレンフィルム・ フェスのプログラムに何があったかを知らぬ私にはただ想像するしかないが、仮にこの『もみあげ団』(原題は『Бакенбарды』)が上映されていたならば、全面的に盛り込まれたソヴィエト・グロテスクが日本で素直に受け入れられたとは考えにくい。グロテスクとは言ったが、この作品に関しては誉め言葉のつもりで、ただの娯楽映画ではないという意味だ。
ある日、ペテルブルク郊外の町に黒マントの紳士二人が岸辺に降り立つ。“もみあげ”をたくわえ、手にはステッキを握る彼らの目的を知る者はまだ誰もいない。 そこは解放された退廃的文化が蔓延する町であり、不明であるのは紳士たちの目的ばかりではない、また住民自らもその方向を喪失していた。ほどなくして、紳士たちの目指しているものが明らかになる。それは、ソヴィエト的価値観からの解放によっても疲弊するしかなかった文化を「プーシキン」によってすげ替えて復興しようというものであった。だが、そこに現れた「プーシキン」は実に詩人である以前にアジテーターであり、A.S.P.親衛隊を結成するばかりの文化主義的ファッショに他な らなかった。
無論、これは指導者=僭称者というロシアの伝統的テーマであると同時に、価値体系が常に崩壊を繰り返すフラットな場所として自らを表象し続ける元アンダーグラウンド系ロシア人思想家たちを背景から脅かしている強迫観念じみた考えでもある。そのため、このフラットな面を闊達に動きまわるために彼らが必要とするのは、皮肉にも、僭称の前提となる「仮面」に他ならず、これは映画『もみあげ団』において「プーシキン」や「レールモントフ」、はたまた「マヤコフスキー」という詩人の仮面として描かれる。そして、特徴的なのはこれだけではない。彼らの手に握られているステッキは道化のシンボルであり、これは古典古代にまで遡る神話的アイテムですらある(要するに、ファロスのことだ)。
以前、ここで引用した詩の一節(チュッチェフ「Silentum!」)に「考えは口に出したら偽りだ」という言葉があるが、これこそは詩人がその仮面を脱いだトリックスターとしての姿を露わにした瞬間と言えなくもないだろう。言葉を信じることの出来ない詩人、否むしろそれはやはり、アジテーターなのだろうか。
ちなみに「もみあげ団」は最後的に当局によって拘束され、そのアイデンティティであったもみあげを刈り取られ、解散させられる。だが、黄色いセーターにスキンヘッドという出で立ちで再びマヤコフスキーに同化し、そしてまた同じ町を行進するところで映画は終わる。
以前、ここで引用した詩の一節(チュッチェフ「Silentum!」)に「考えは口に出したら偽りだ」という言葉があるが、これこそは詩人がその仮面を脱いだトリックスターとしての姿を露わにした瞬間と言えなくもないだろう。言葉を信じることの出来ない詩人、否むしろそれはやはり、アジテーターなのだろうか。
ちなみに「もみあげ団」は最後的に当局によって拘束され、そのアイデンティティであったもみあげを刈り取られ、解散させられる。だが、黄色いセーターにスキンヘッドという出で立ちで再びマヤコフスキーに同化し、そしてまた同じ町を行進するところで映画は終わる。