2009/08/04

So much for SAMURAI JAPAN's "le sentiment"!


ヤフーのニュースサイトを見ることが多い。
別に気に入っているわけでもなく、ただ癖になっているだけの話。その癖もよい癖とは看做していない。むしろ、直すべき悪癖であろうと思う。

一番気に入らないのがコメントである。コメントを読むとニュースの内容よりも、ニュースの背景となっている社会的気運が如実に現れていることに気づく。コメントを書く人間は、通常人と話すことの少ない人間である。人と話が出来るのであれば、わざわざ不特定の人間の前に出て私見を述べるまでもないことで、これは私の偏見であるが、欲求が十分には満たされていない。ブログも同じであるので、私も欲求をこのような形で満たしていることになる。かくして、吉原に行くように、あるいは、ホストに会いにいくように、気侭にブログを綴るのである。

コメントは文化の縮図であり、社会の周辺に位置する。中心にいる者はコメントを求められる立場であり、自ら発信する必要がなければコメントは滅多にしない。作家がそのよい例だ。べらべら喋るばかりのコメント上手な作家にろくな者は居ない。何も書かない人間と同じで、それこそ周辺的な市井の存在に過ぎない。それが嫌ならば、作家は書くしかないのだ。


ヤフーコメントに戻る。

このコメント欄の特徴は一言で言えば、一般常識を装ったコメントが多いことにある。覚醒剤逮捕者の妻にも道義的責任がある云々...などというコメントを見ていると、日本社会の抑圧的性格がはっきり分かる。以前にも書いたことがあるが、やはり大衆の時代は目立つものを埋没させることに熱を上げる下衆な時代なのである。火事場へ泥棒に入るようなもので、盗み出せるものは何でも盗み出す。栄光を背負っている者、人気のある者、金のある者、ありとあらゆる社会的ステータスを剥ぎ取ることで溜飲が下がるというわけだ。あっぱれである。そんな社会に未だに谺するのが、その先祖の大多数が農民であるはずの下衆根性丸出しの「侍ジャパン」である。侍ルサンチマンとでも言おう。これは大げさな言い分ではない。実際の日本人は未だに欧米へのコンプレックスに絡み取られて、ヨーロッパ語にしがみつき、NOVA通いに大枚叩いて、鼻を空かされるのである。侍は三島が流行らした嫌いがあるが、あれを引き摺っていけるのは今やスポーツの世界しかない。あれこそパセティックとしか言い様がない。莫大な報酬をもらう選手をよそに、大衆は未だに「侍」と嘯いているのである。こんな話、ほとんどノーコメントで済ましたところだが、そういうわけにもいかないのだ。


侍の所以を考えてみよう。

武の術は、闘いの場において自らの死を一歩でも遅らせるために相手を利用することを身につける術であると考えてみよう。だとすれば、闘う相手でもない人間を遠い岸辺に置き去りにして、しかもその人間が無縁の者であり、なおかつ、苦しみ喘いでいるのを横目に、誹謗中傷・罵詈雑言を並べ立て、相手が立てなくなるほどに痛罵するということと、すぐ上に述べた武術にいかなる共通点があると言えようか。評論家気取りのアホ丸出し下衆コメンテーターがヤフーのニュースコメントに書き込んでいるのは単なる低能なファッショに他ならず、またそれを許容し、利用されているヤフーも低能の誹りを受けても甘んずる外ない。