2006/03/31

ウグイスボーロボロ

今日、私は朝から笑っている。何か良いことがあったから笑っているのではない。ただ、自分がいかに欺かれていたというか、いかに自分で自分を欺いていたか、ということに笑ってしまったのだ。
春先のこの季節、昔からトイレに入るとウグイスが鳴いているのに耳を澄ましては何ともない感じを抱いてきた。だから、大して啼き声になど興味はなかったものの、その啼きのパターンは一つだと勝手に思いこんでいたのである。つまり、「ホーホケキョ」だ。
しかし、さにあらず。今朝、徹夜の頭でコンピュータの前で座っていると、耳慣れた声が聞こえる。ウグイスだ。だから、反射的にトイレで座っている気分になっていた。ズボンはそのまま履いていたから括約筋は反応しなかったが、外をよく聴くと変なのだ。パターンが違う。神戸に移ってすでに十年以上になるから、今年からリニューアルなんてこともないだろうし、自然界がそんな気の利いたことはしない。無論、気前だけは良いのだが、今日はその気前の良さが違った。
「ホーホキョケ」・・・ん?
「ホーキョケ」・・・はぁ?
「ホキョ」・・・...?
仕舞いには
「キョ」である。
これはきっと誰かが真似をしている、声帯模写の方が近くに住んでいるに違いないんだぁ、とここでも思いこんで外を窺ってみるも、人影はない。よっぽど耳が悪くなったのか?そしてまた、
「ホーホキョケ?」
おちょくっとる。
この啼きは、メスに笑いをとっているのか?
「でも、人間の笑いをとってどうする、なあお前さん」と笑いながら、その後も外を眺めていた。

2006/03/23

単為生殖と女の平和

生活環境によって生殖方法を適宜変える生物がいる。好適条件を利用して大量繁殖するために用いるのが単為生殖で、いわゆる自分でじゃんじゃん「産めよ殖やせよ」をメスから実行する。これぞ「男のいない平和」である。こうして個体群の密度が上昇し、数が増えてくると、やっときちんとした卵を作るのに必要な相棒、オスが現れる。こんどオスとのあいだに出来る卵はすっかり硬い殻でコーティングされているので、環境がどれだけ悪化しても休眠状態に入ってしまえばいい。嵐が過ぎ去るのを待つのである。オスはこの時やっと、メスの卵の「殻」を強くする、いわば皺隠しに塗りたくる白粉ほどの価値はなんとか獲得する。人間界をミジンコ界と比較すると何とこの世は価値に満ちあふれていることか。

2006/03/22

理の性

「ETA」が弱小言語であるバスク語の研究集団から武装集団に変貌していったが非合法組織というのは知られている。

不謹慎ながらも、私はいつもこの「豹変」としか言いようのない人間行動が不思議でならないのと同時に、非常な興味をそそられるのである。かつては西ドイツなどを中心にしてヨーロッパにはゲリラ組織がうじゃうじゃ散在していた時期があるが、そのなかに、科学的な方法でテロリストに仕立て上げられた連中がいる。今で言えば「洗脳」ということになるが、要するにそれは複数名の被験者を「急進的社会主義者」に「改造」するのだ。理念的に言えば、彼らの頭の中は正しい思想が沢山詰まっていて、それを実現するためには自分たち以外の人間も自分たち同様に改造しなくてはいけない。だから、論理は「世界=瑕疵」であり、善くないのである。この改造行為を外化による理念の実現と呼んでもよいが、結局彼らは本当にテロリストになって、ストックホルムのある大使館で殺害事件を引き起こしてしまう。

理性は息苦しいものであり、その苦痛は人間を発狂寸前にまで追い込むことがある。たしか、「ハムレット」にも、狂気にはそれなりの理屈があると、という一節があったと思う。俗に「もっと理性的にならなきゃ」と言うが、何のことはない、それは「話半分くらいで理性に従う」くらいのものであって、理性的人間を極限まで追い込むとどうなるかは、上にもあげた事例が示してくれる、つまり、理性はその究極形態において常に破滅的であるということを。

2006/03/20

バトラー養成プログラム

ーバトラー君、お入り
ー何でございましょうか
ー君にはこれまでずいぶん世話になってきたよな
ーええ、お世話させて頂きましたが...
ーそこで一つ最後にお願いがあるんだ
ーと申しますと...
ー今日は主人になってくれないかね
ーご主人の「主人」ということでしょうか...
ーそう
ーいかがいたしました?
ーいや、大したことないんだが、たまにはと思ったんでね
ー結構でございますが、何から初めていいものやら...
ー靴磨きとかでもいいぞ、何でも命令してくれ
ーはぁ、では私の奴隷になってください
ーああ、それなら簡単じゃないか、今までと同じだ

2006/03/18

蘇るバルトロマイ(東暦666年)



「剥がれても私は立ち尽くす」の図(ミシェル・アンジェリカ作、東暦666年頃)

2006/03/17

ホムンクルス・キベルネティクス卿回答書

信愛すべきサァ・スチュワート・カンタベリー殿!

報告司祭の書面、本日夕刻に拝受致しました。
貴殿の苦しみ、これは私どもの痛みでもあり、同じ天蓋に住まうものであればこそ、血と肉をともに分かち合うがごとく、その苦悶すら常に分かち合おうというもの。大鉈を振るった者にしか分からぬあの罪深き快楽、かっ裂いた贄牛の腹から一本そしてまた一本と引っこ抜かれる血の滴る肉、それは貴殿の苦しみの元となるスペアリブであります。喩えとしてはやはり皮肉なものでございますが、私の頭蓋の毛根もこのスペアリブの如き運命。その苦しみは比べるまでもございませんが、しかし貴殿の苦痛は快楽が一つ一つ抜き取られ、浄化されていることを暗示してはおりませぬか。風化していく私の頭皮はもはや誘惑に堪え忍ぶべき試練として与えられた砂漠、この荒れ果てた地には悪魔が仕掛けた罠で足の踏み場もございません。されど、これは神の試練、この悔い改めをもって至福を願われておられるのではありますまいか。

最後に。
不躾な文面、何卒御寛恕頂きたく存じます。荒地にある貴殿の苦悶が一刻も早く癒されんことを切に祈りつつ。ドミヌス・テークム!

あなたのホモンクルス・キベルネティクスより

写真協力:スー・フランソワ・バトラー宣材写真本舗

「ある教管区でのこと」司祭報告:サー・スチュワート・カンタベリー特派員

2612年109月2.26日(パカパカ)

私の管区では最近、色々と物騒なことが起こっております。先日も、犬に噛みついた男がおりました。そこで、

「一体どうしたのだ、下僕よ」と聞いてみますと、
「犬が悪口を言ってくる」というのです。

医者に診せてみますと、その医者も同じような苦情を私に投げかけてくるのです。”困ったものだ、医者がこれでは困る。どうすればいいのやら...”と思いあぐねておりましたら、耳の奥で声が聞こえてきたのです。

「あいつは犬じゃない、悪魔の手先だ、やってしまえ、やってしまえ...」

私は怖ろしくなりました。身近な者が狂気にある時、周囲の者も感染することがあると聞きます。私も同じように気が触れてしまったのかと思い、救われたい一心で祈りを捧げました。すると、今度はこれまでとは違う声が聞こえてきたのです。

「...ふむ、このスペアリブ、どこで買ったの?うまいや... モグモグ」

これがもう一ヶ月も続いています。未だに、神の声は聞こえません。

どうすればいいのでしょうか、誰か教えて下さい。

ノウの発達と野蛮の尺度

宇宙、少なくともこの地球上では神の思考実験、つまりそれはすでにホンチャンの実験として、脳細胞増殖計画が進行中である。

脳は進化しているのか、という問いは愚問で、すでにその進化速度も限界域に達し、もはや下降線を辿って久しい。その代表格がホモ・サピエンスである。何も道具を持ち、言葉を話すからといって、偉そうにふんぞり返ることの出来る時代はとうの昔に過ぎ去り、いまやこの忌まわしき聖なる実験をうっちゃって、自分たちのプログラム(遺伝子)を改竄して、この肥大しきってだらしなく腹の出た脳味噌は丁度お手頃サイズのコンパクト・ブレインに変えられようとしている。どんな野蛮なことをしても、「脳が小さいからしかたないじゃん」という言い訳をするためだ。脳はもはや盤石ならぬ、蛮尺となって、この世を憎悪する。これが神の宇宙開発である。ウキッ。

2006/03/16

人類は何をもって生きながらえるのか


ブレヒト『人類は何をもって生きながらえるか』

紳士諸君に告ぐ、汝の使命を
死に値すべき七つの大罪より我らを清めんことと思いなす者よ
先ずは基本的な食のあり方というものを見直さねばならん
そうして初めてご託を並べるがよい、すべてはここから始まるのだ

節度を説き、腰のくびれに気を回す輩どもよ
一度でいいから学ぶがよい、世界のあり方を
いかに体を捻ろうと、いかなる出鱈目を言おうとも
食が第一、モラルなど後からついてくるのだ

しかして、念を押そう、この今という時に餓え苦しむ者たちが
しかるべき助けを得るのは、初めて肉が諸人に切り分けられたときなのだ
人類は何をもって生きながらえるのか?

人類は何をもって生きながらえるか?
この事実、何百万の民が日々拷問、
燻殺、刑罰、緘黙、抑圧のもとにおかれている事実だ
人類が生きながらえているのは、同族種を押さえ込む
その手練手管のお陰なのだ
よって、一度でいい、この事実を金切り声で叫ばないでみよ
人類は獣の業によって生かされている

1928

2006/03/14

たそがれて


こうやって、悪魔君でもたそがれる...

主人と賓客

エコロジカルなマインドとは何か、と少し考えてみる。変な言葉だが、今やこれを聞けば何となく連想するものは誰にでもいくつかはあるだろう。まあ、別段、かく言う自分は誰に強制されたわけでもないのだけど、「地球にやさしく」という言葉が昔から気になっているので、今日はこの種の「やさしさ」を取り上げる。

この「マインド」は、端的に言えば、「世界の手段化」への抵抗なのだろう。ここでいう手段化とは、つまり、地球の主としての搾取をいう。まあ、捕鯨を止めたところで、何かを食するのがわれわれの定めであるから無駄な抵抗といえばそれまでだが、この抵抗の意味は一体何かを考えてみないといけない。

主人は始めから主人であるわけではない。彼は自分が主人であることを認めてくれる者を常に必要としているし、その必要性を必然性に変えてくれる者に依存している。主人の真理条件はこの依存者である、とすら言える。例えば、イギリスの「バトラー」は単なる召使いではなく、主人を取り巻く環境を整えて管理する存在者である。それを主人がやってしまう(つまり、主人たる条件を無視する)と彼(バトラー)の存在意義は無くなるので、それには主人も絶対手出ししてはならない。主人の主人たる条件としての依存はこの「手を触れない」という命令によって初めて成立する。だから、主人というのはこの自らへの命令がなければ主人でもないし、何ものでもない。単なる人である。

民主主義はこの「単なる人」であり続けることを考えようとする。選挙権といったことはすべて制度上の問題なので、これをこの主義の根幹というのは単純に可笑しい。むしろ、主人を誰にするかを決めるに当たって、「単なる人」が自分に対して向けた命令を貫徹する可能性を問うことにある。「主人を決める」といったが、これは自分に依存してくる人間を決めることだから、「みんなのため」とか「国のため」云々は全部後づけのデマゴギーに過ぎない。

大臣という言葉があるが、たとえ偉そうに聞こえても、この漢字にはそんな意味は含まれていない。むしろ、仕える者の親玉くらいの意味であって、やはりこれも主人に仕える「バトラー」なのである。本来は「単なる人」だった連中が主人を決めた上で、その長になるものを決める過程で生じてくるのが大臣であって、その人物に一目置くというのは、精々、喧嘩が強いとか口が誰よりも達者という程度のことに過ぎない。

さて、手段の話に戻る。
世界の目的が一体何なのかは最初から明らかではない。だから、手段も同様に、最初から明白ではない。どこに的を定めるかは、上に言った「主人」を誰にするかによってあらかた決定される。そして、その手段は一様である。なぜなら、「的を射る」ことだけだからだ。エコ・マインドの的は「地球」である。その外へ出る必要は今のところない。地球が「主人」だからだ。客人たる生命体あるいは生態系の「もてなし」で頭が一杯なのである。だが、奇妙なことに、このもてなしに頭を悩ませている者自身が「客人」なのである。これは本来、主人が考えるべきことで、客は任せておけばよいのだ。だが、そうはいかない、とこの客たちは言う。だから奇妙なのだ。人の家に上がって、勝手に冷蔵庫を開けるようなものである。これは奇妙どころか、不躾ですらある。でも、それでいいのだ、と客は言う。客はさらに、主人にはもっとやさしく接しないとダメだと言う。なぜなら、主人の頭皮は老化し、毛は無様にも抜け始め、ヤニだらけの歯は零れ落ち、脳味噌は血腫だらけで今にも炸裂しそうだからだ。要は、死にかけているので、蘇生術を施そうというわけである。世界はもはや客人が憩う迎賓の間ではなく、緊急病棟なのだ。だから、客人の中にいた医者が手を上げて立ち上がり、屋敷の至るところにカテーテルを挿入するのである...まあ、こういう喩えは際限なく続けられるが、このくらいで止めておこう。

しかし、主人が瀕死なのか、それとも血相を変えて立ち働く客人が酸素不足で錯乱状態なのか、果たしてどちらなのかを考えないといけない。むしろ、地球=主人を手玉にとって搾取するというのは言い得て妙だが、的はずれではない。地球=世界を手段にして目的としないのはけしからん、というのは汎神論的には正しい。だが、どんな「単なる人」も、自分が手段になることは望まないのだとすれば、これまた都合の良い話である。つまり、この客人たちには目的はあっても手段がないのである。だから、それは蘇生術に見えて、ただのお掃除にしかならない。政治用語で言えば「パージ」だ。

...病室には何本もの管につながれた「地球号」が横たわり、その周りには清掃服を着た医者が取り囲んでいる。今、われわれが住むのはそんな室である。

2006/03/06

Dominus mecum...

【8日】「“ネオ・ヤポニカ種”が絶滅の危機」

絶滅危機種に指定されているネオ・ヤポニカ種の交配に失敗し続けている泥国アカデミー(Academica Dei Cosmopolitanicae)のクシェストフ・バープキン博士研究チームは7日、今後の対応策を協議した結果、2512年以来100年近く継続してきた「ネオヤポニカ・サルヴェーション計画」(通称ヤポサル)を来期でもって放棄する発表を行った。



バープキン博士の談話
ー現時点において自然状態での同定が可能な「ネオヤポニカ」種の半分以上は、2403年以降の急激な寒冷化に伴ってその定住圏を東シベリアへ移動させています(咳)。しかも、その多くがすでにオス化してしまったたメスという有り様です(笑)。これまでに観察されているデータから推定しますと、すでに性変異段階に入った群種が再オス化する可能性は0.000000000000001%の確率ということが言えるでしょう(冷笑)。この話と直接の関連性はまだ確認されていませんが、去年末にはこれまで学会で否定されて続けてきた「レミング」型集団自殺を証明する実例がチャイニーズ=チベタン科学アカデミー(通称チチアカ)によって公式に発表されました。レミングとは、いわゆるタビネズミのことですが、この生態現象は個体数調整を行うために個体群が集団自殺するというもので、進化生物学史上の神話的仮説として登場して以降、まだ19世紀的呪縛から逃れていなかった生物学者を捉えた時期がかつてありました。その後、遺伝子中心主義の時代になり、完全に無視されることになりますが、ここ数年、ネパール帝国アカデミー(略称ネアカ)からの新たなデータが収集されたことで、にわかにまた脚光を浴び始めていました。この集団自殺によって完全自滅してしまったのはネオヤポニカ亜種の「ネオオサカーンス」です。この亜種はもともと「笑動物」という異名をもち、北半球コロニーの生物学教科書では必ず「お笑いコラム」に紹介することが各国アカデミーでは義務づけられています。ですから、言葉遊びになって恐縮ですが、この亜種が絶滅してしまったことでわれわれの「笑いの種」がなくなったことは大変悲しいことです。(博士はここで喉を潤そうとしたが、笑いがこみ上げてきたためにインタビュアーの顔へ放水)...とにかく、亜種のネオオサカーンスによる自滅行動とネオヤポニカのメス化とのあいだに遺伝子レベルでの関係がないかどうかを今後も静観していく必要はあるでしょうが、「ヤポサル」を継続する気はもう全然ありません。年間5億ドルの大枚を叩いてエコ・コイトゥス(第5世代人工発情装置)を再三購入してまで、漸次野生化するサピエンスを救済する計画には泥国国内からも非難の声がそろそろ絶えなくなってきていますから。



サイエンスライターのマジック・ベンジャメン・ロヨラ・サールズベリー牧師のコメント
ーまあ、人類にとって「笑いの種」がなくなるというのは、「失笑」ものかな?
Dominus mecum!


インタビュアー:サー・スチュワート・カンタベリー特派員(2612年タンゴの節句に「イヒヒ」と笑うところを記念撮影、写真右)
写真協力:スー・フランソワ・バトラー宣材写真本舗

2006/03/01

忘れられない守護聖人


「守護聖人」と題したが、私はカトリックとは何の所縁もない者だから、これから書くことは単なる数珠つなぎ的な雑記である。


だから話は全く関係ないところから始まる。


コードネームは「スカーレット」

ここ最近というもの、日本には「インテリジェンスが必要だ、全くその意識が欠けている...云々」と、さも何かの秘密を握っているような物言いの似非賢者たちがテレビを賑わしている。特に国家戦略がらみの言説では「○×研究所所長」とかいうダブルに太っといネクタイ(大抵赤色だが、緋色がお似合いなのに)のオッサンがニュースキャスターの横にちょこりんと座っていて、まだこれから五時間くらい喋っても足りないってな感じで帰って行ったあとのコマーシャル明けに、目がチカチカするネクタイを見なくてすむのは何と清々しいことか。

「インテリジェンス」という言葉が今の意味で使われるようになるのは丁度16世紀の半ば以降のことで、それまではいわば、広く一般に耳よりの情報や告知・警告を届けるといった「広告」の意味合いで使われるのが普通だった。これを日本に持ち帰ったのが明治以降のことだから、意識が欠けているのはある意味当たり前のことなのだけど、こうやって、この16世紀が今回のネタの発端となったのである。

気になりだした本家本元の情報収集活動=諜報を色々と調べていくと、王家の周辺に諜報活動の専門集団が形成され始めるのがやはり同じく、この16世紀で、より正確には、新旧教徒の覇権争いが激化した聖バルトロメの虐殺前後の時代に遡る。

と、ここまでは単なる枕でしかない。
聖バルトロメ、これは十二使徒の一人。そして、ここでやっと先に触れておいたカトリックのお話である。

この聖人はカトリックではパトロン聖人(などと書くと、どこか遠いところからやって来た人みたいだけど)、いわゆる守護聖人。でも、聖書を見てもこの人の名前はほとんど出てこない。ヨハネ福音書になると、名前すらない。どうしてなのか、という理由はここでのテーマじゃないから深くは掘り下げないけど、彼の本名が実は「イエス」だったことから、混同を避けるために変えたという話がある。これはシリア系の伝承らしいが、しかし、これもどうでもよい。

ただ、少し話を保たせるのなら、こうだ。
ミケランジェロの「最後の審判」に皮だけになってぶら下がっている人が一人いる。これは後に出来たバルトロマイを描く際の伝統で、生きたまま皮を剥がれて殉教したことから、彼は革職人のパトロン聖人ということらしい。何とも日陰である。ダラリと垂れたダリの時計って感じ。

問題はここから。

イエスの死後そして復活後、使徒たちは宣教の旅に出る。パウロによる異教徒ストア派の前での演説があまりにドラマチックな舞台装置には少々驚きだが、せっかくの晴れ舞台なのに肝心なオチがないので失笑を買ってしまう。一方、バルトロマイはインド、そしてさらには、自殺したイスカリオテのユダではなく使徒であるタダイのユダとともにアルメニアへ向かったという(ここにアルメニアが世界最古の使徒教会と称する所以がある)のだけど、これもあまり関係ない。ここでは、日陰にいたバルトロマイからさらに日陰のユダにバトンタッチをしてもらう。

昔から深夜はハリウッド系ドラマというのが定番だが、僕が好んで流し見していたのが「ヒル・ストリート・ブルース」だ。アメリカにとってシカゴという町が特別な場所(アメリカ第二の都市、人口密度では第三の都市)なのは分かるけど、日本風の「部長刑事」とか「はぐれ刑事」みたいな泥臭い刑事物は先ずない。アメリカの刑事物は大概、悪人と善人の区別がつかず、だから、警察署内での横領とかがテーマになりやすい。勧善懲悪とかにしようとすれば、どうしても「ナイトライダー」みたいなフリーメーソン風の超然とした秘密組織が必要になってくる。日本でそういう物を見るのなら、刑事物はお薦めできない。それこそ「仮面ライダー」が一番。

話がそれたが、やっと本題。
シカゴは1770年代にハイチ人(非白系)のジャンーバティスト・ポワント・ドゥ・サーブルが最初に根城を構えた場所で、実はアメリカ史においての彼の位置は、白人でないことから良い扱いを受けてはいない。町の長にもなれなかった彼は自宅を売り渡して西部へ旅立つわけだが、その理由も未だにはっきりしていない。アメリカの歴史においては、いわば「敗残者」に仕立て上げられてしまったままだ。

上段で、すでにバトンタッチしてもらっているユダにここでやっと登場してもらうが、彼は名前が同じ「ユダ」ということもあって、祈りの際の混同を避けるために、祈りの対象にはあまりならず、ある時期まで高い人気がある聖人とは言えなかった。ところが、ヨーロッパではスペイン・イタリアというカトリック教国で日陰にあった彼はいわば「リバイバル」を果たす。これが1800年代初頭という。はっきりとした因果関係はここには見いだせないが、南アメリカ経由でこの聖人崇拝は合衆国アメリカに辿り着く。その発火点となったのが他でもないわれらがシカゴである。

ユダは敗残の守護聖人。

「ヒル・ストリート・ブルース」の舞台はシカゴ。だから、シカゴ市警察の守護聖人はもちろん「聖ユダ」。

敗残の苦悩に耐える場所、そこにはいつもユダがいる。