エコロジカルなマインドとは何か、と少し考えてみる。変な言葉だが、今やこれを聞けば何となく連想するものは誰にでもいくつかはあるだろう。まあ、別段、かく言う自分は誰に強制されたわけでもないのだけど、「地球にやさしく」という言葉が昔から気になっているので、今日はこの種の「やさしさ」を取り上げる。
この「マインド」は、端的に言えば、「世界の手段化」への抵抗なのだろう。ここでいう手段化とは、つまり、地球の主としての搾取をいう。まあ、捕鯨を止めたところで、何かを食するのがわれわれの定めであるから無駄な抵抗といえばそれまでだが、この抵抗の意味は一体何かを考えてみないといけない。
主人は始めから主人であるわけではない。彼は自分が主人であることを認めてくれる者を常に必要としているし、その必要性を必然性に変えてくれる者に依存している。主人の真理条件はこの依存者である、とすら言える。例えば、イギリスの「バトラー」は単なる召使いではなく、主人を取り巻く環境を整えて管理する存在者である。それを主人がやってしまう(つまり、主人たる条件を無視する)と彼(バトラー)の存在意義は無くなるので、それには主人も絶対手出ししてはならない。主人の主人たる条件としての依存はこの「手を触れない」という命令によって初めて成立する。だから、主人というのはこの自らへの命令がなければ主人でもないし、何ものでもない。単なる人である。
民主主義はこの「単なる人」であり続けることを考えようとする。選挙権といったことはすべて制度上の問題なので、これをこの主義の根幹というのは単純に可笑しい。むしろ、主人を誰にするかを決めるに当たって、「単なる人」が自分に対して向けた命令を貫徹する可能性を問うことにある。「主人を決める」といったが、これは自分に依存してくる人間を決めることだから、「みんなのため」とか「国のため」云々は全部後づけのデマゴギーに過ぎない。
大臣という言葉があるが、たとえ偉そうに聞こえても、この漢字にはそんな意味は含まれていない。むしろ、仕える者の親玉くらいの意味であって、やはりこれも主人に仕える「バトラー」なのである。本来は「単なる人」だった連中が主人を決めた上で、その長になるものを決める過程で生じてくるのが大臣であって、その人物に一目置くというのは、精々、喧嘩が強いとか口が誰よりも達者という程度のことに過ぎない。
さて、手段の話に戻る。
世界の目的が一体何なのかは最初から明らかではない。だから、手段も同様に、最初から明白ではない。どこに的を定めるかは、上に言った「主人」を誰にするかによってあらかた決定される。そして、その手段は一様である。なぜなら、「的を射る」ことだけだからだ。エコ・マインドの的は「地球」である。その外へ出る必要は今のところない。地球が「主人」だからだ。客人たる生命体あるいは生態系の「もてなし」で頭が一杯なのである。だが、奇妙なことに、このもてなしに頭を悩ませている者自身が「客人」なのである。これは本来、主人が考えるべきことで、客は任せておけばよいのだ。だが、そうはいかない、とこの客たちは言う。だから奇妙なのだ。人の家に上がって、勝手に冷蔵庫を開けるようなものである。これは奇妙どころか、不躾ですらある。でも、それでいいのだ、と客は言う。客はさらに、主人にはもっとやさしく接しないとダメだと言う。なぜなら、主人の頭皮は老化し、毛は無様にも抜け始め、ヤニだらけの歯は零れ落ち、脳味噌は血腫だらけで今にも炸裂しそうだからだ。要は、死にかけているので、蘇生術を施そうというわけである。世界はもはや客人が憩う迎賓の間ではなく、緊急病棟なのだ。だから、客人の中にいた医者が手を上げて立ち上がり、屋敷の至るところにカテーテルを挿入するのである...まあ、こういう喩えは際限なく続けられるが、このくらいで止めておこう。
しかし、主人が瀕死なのか、それとも血相を変えて立ち働く客人が酸素不足で錯乱状態なのか、果たしてどちらなのかを考えないといけない。むしろ、地球=主人を手玉にとって搾取するというのは言い得て妙だが、的はずれではない。地球=世界を手段にして目的としないのはけしからん、というのは汎神論的には正しい。だが、どんな「単なる人」も、自分が手段になることは望まないのだとすれば、これまた都合の良い話である。つまり、この客人たちには目的はあっても手段がないのである。だから、それは蘇生術に見えて、ただのお掃除にしかならない。政治用語で言えば「パージ」だ。
...病室には何本もの管につながれた「地球号」が横たわり、その周りには清掃服を着た医者が取り囲んでいる。今、われわれが住むのはそんな室である。
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