ガボン大統領死去のニュースを何の感慨もなく紙面で読む。この感慨のなさは殆ど病に近いのだが、今日の話は現代の病理についてではない。至って身近な話、「家事」である。
現代政治の流れは”民主的なもの”、あるいは、その保守に結びつけて考えられることが多い。それに反するものはどのような場合であっても”反動的”であるとして忌避される。保守は現在時への繋縛傾向が強いにしても、反動とは呼べず、伝統主義と名づけることもまた正確さに欠ける。安定を目指すとすれば、いずれの政治的態度においても「家事」がすべてを決定していく。収支、借金、赤字の家政学がわれわれの行動全体を支配するのである。この支配を逃れる術こそは、独り身の孤高なのだが、共同性を排除することからくる生の不確実性まではこの孤高も排除することは能わない。
上に述べた意味で、つまり、「家事」の術を操るという意味では、民主的であることも保守(あるいは反動)的であることも互いに矛盾するものではない。では、「世襲」というのはどういう位置づけが出来るのだろうか。「家」という制度は定義上、家の世襲的性格によって維持されるし、男系であろうが女系であろうがその性格を失ってしまえばすでにそれは家ではなく、ただの人間の集まりに過ぎない。あるいは運命共同体と言ってもいいが、その呼び名は重要でないし、その価値についてもここでは問題ではない。世襲によって何が守られているのかを考える必要があるのだ。
世襲禁止というのが現国政の焦点となりつつある。その議論の始点は恐らく、世襲そのものが本来的に持っているかのように見えてしまう「反動性」あるいは「保守性」を目の敵にしたところにあるのだが、政治をその「家事」的性格から見た場合、世襲的であることを果たして避けることが出来るのだろうか。政治は支配するものであり、またその支配から逃れることによって別の支配を作りだす運動である。「家事」の放棄は支配の放棄であり、支配の放棄とは自発的に隷属化することを意味する。
世襲について考えるには政党についても考え及ばねばなるまい。革新的とされる政党が挙って世襲を禁じる姿勢を見せているが、果たしてその挙動の一体どこが革新的であるのかには疑問を持つことが必要だ。政治家の世襲を禁じるとしても、そこには必ず支配持続の運動が必要とされるのであり、政党というのは政治運動化された「家」制度として機能している限りは、また世襲政治の欠落を補完しもする。世襲批判の一貫性の無さは、原理上支配維持の原則からは逃れようのない「家事」的性格を政党もまた持たざるを得ず、それは同時に「世襲」的であらざるを得ないということを黙っているところにある。
さらに、世襲政治家に対する批判以前に、一番の問題はどこにあるかと言えば、それは選挙時における有権者の選挙行動である。この最も手垢に汚れ易い政治行動がすべてを決定しているのであるとすれば、世襲批判以前に、政治運動の大衆化がいかなる功罪において判断されなければならないのかを見極めねばなるまい。罪の部分には迎合しかり、ファッショしかり、あらゆる大衆化の危険が潜む。家事については人間のみならず、昆虫もそれなりに営んでいるものである。大衆意識が末端肥大化しても昆虫の家事であれば、世襲であろうとなかろうと、頭脳組織は針の穴ほどもあれば十分過ぎるくらいなのだ。
国政は民が昆虫になればなるほど楽なものであり、世襲の問題などはこれっぽっちも重要でない。それは諸々の結果に過ぎない。こんな冷めた食餌では誰も喜びやしないのである。