2009/12/19

彷徨、奉公、放校、咆哮

さて、今日はそろそろ始まった現行大学制度の本質的解体について論じたいと思う。

12月19日付の「九州大学による生活支援」に関する記事にちなんで。

日本における現行の大学の目をよく見ると、それがロンパリであるのが分かる。
右目は「家庭」に、左目は「社会」に向いている(九州大学の話は最後にしよう)。

今の大学がその上にかいている胡座は、そもそも生活費を自費(あるいは親の慈悲)によって賄え、なおかつ授業料の工面が可能な「家庭」の上に横たわっている。重要な点は最後に記した「家庭」という概念である。優秀な学生を集めるという名目で大学は今、生き残りをかけて様々な戦術を凝らしているが、そこに共通するのは一つの崇高な勘違いである。それは、大学教育に捻出される資金源のほとんどが、今挙げた「家庭」というものに依存している点だ。そもそも、義務教育の枠に入っていない以上、大学教育を提供する側の基本スタンスは「家庭」を度外視した、全方向的なものであってしかるべきであるが、必ずしもそういった戦略的な枠組みを持っているとは言えない。戦略のあるところにはあらゆる方向に目が向いていなければならない。だから、今の大学改革は全方向的だと私は言わないのだ。

ヨーロッパのボローニャ・プロセスを例に取ろう。

これが成功しているか失敗するのかはまだ現段階では何とも言えない(また、学士3年、修士5年、博士8年という3-5-8年制という時間枠についてはここではとりあえず問題にしない)が、これは簡単な話が、欧州連合の通貨ユーロの大学教育ヴァージョンだと言ってよい。ヨーロッパ内の大学教育の現場において、従来の単位に相当するモジュールの互換性を高め(その教育レベルの高低はどのみち無視してしまう形で)、この資格証明書さえあればヨーロッパを自由に行き来出来るという通行証である。本来、大学修了証明書をdiplomaと呼ぶが、この呼び名が本来はギリシャ語の交通許可証から来ていることを考えれば、この発想自体は至って自然である。

ボローニャ・プロセスは失敗する運命にあるという人もいれば、その逆を吹聴する連中もいる。どちみち、その背景の部分に動いているものが何であるのかを考える限り、成功失敗などはどうでもいい話である。つまり、人間の流動性を高めることによるヨーロッパの死活こそがここでは問題なのである。欧州連合とは別の次元で行なわれていたことも、逆にこのヨーロッパ内部における必然的なダイナミズムを感じることになろう。ここには当然のこととして奨学金制度・学生支援制度も連動しており、上に挙げた日本の大学のように、高台を歩かせる馬に目隠しをするような政策ではない。大学に入ることが「箔がつく」といったような次元でもない。むしろ、大学はもはや知的自由を謳歌出来るような場所ではなく、ほぼ確実に経済的虚栄の市になろうとしているのであり、その成功のためにはいくらも金を惜しまないのである。

日本の話。今の大学の修了証書などは、そのほとんどが「徒花」である。バスの整理券にすらならない。

今後十年先まで所得配分が現在のままであり続けるならば、恐らく50%近くの大学(特に私立大学)は文字通り徒花と散るしかなく、国公立とてその例外ではない。わずか20年前と比べても、授業料は二倍近く膨れ上がっているのに、所得上昇率などは無論比較にならない。本来スルスルと流れて行くはずのお金のパイプは今や詰まっているどころか、疲労の末に破裂し、どこぞの別荘の庭の金のなる樹の傍で泡を立てて吹き上がっている。

無償化の議論。

これは、国連人権規約の中にある中・高等教育の段階的無償化を批准していない国、日本のお話である。この方針が現状をよく反映しているとは言え、その批准を促進するしないについては、また別問題であろう。上に述べたように、日本のやり方は高度成長期マネー(中高所得者)を当てにした社会的戦略性の低いものであったわけだから、方針をこの先見直すことはあるにしても、それは国際的な建前の話であって、実効性については別に無視してしまっても構わない、というのが恐らくリアルな政治家の知恵である。しかし、無償化もせず、奨学金制度も充実させないままにこの先突き進もうとするならば、墓穴を掘ることになろう。大学は経営不能となり、半ば倒産。家庭は支払い不能となり、進学見送り。日本社会がそもそもユダヤ人のようなコミュニティ精神を持っているわけでもないので、どれほど優秀な人材であっても、簡単には進学することは難しい。そこで、大学がこれを助ける能力がどれほどあるかがここで問題となるわけだが、ここが大学無償化問題の分かれ道である。さあ、最初の九州大学の記事に戻ろう。

経費削減等々で一億円が捻出出来たという。
1000人に10万円の支給、倍率は5倍ほどだ。
本来、大学は勉強しない連中に媚を売る必要はないのである。リアルな話をすれば、金を払おうが払うまいが、しっかり勉強してさえいれば大学生として認めるだけのことなのだ。研究者でもないし、教育者でもない。しかし、そのどちらにもなり得る人材だからこそ、大学にとっては重要なはずである。それなのに、何もせずに金を払ってくれるからという最低な動機のもと大学を運営するなどということは倫理的に考えてもチャンチャラ可笑しいのである。この5倍の倍率で賞金を獲得したものはさらに茨の道が待っている。そう、それでいいのである。大学生はトレーニングセンターにやってきたのであって、アロハシャツにバスローブの健康ランドではない。

而して、大学の将来的戦略の根幹は至って単純なのだ。そしてこれが大学の本質的解体の序章である。

「お金払うから、ウチに来て」

今や、大学は坊さんの居場所ではない。そういったものは私塾か禅堂かに任せればよい。勝手に人は集まるし、金もかからない。こう言いさえすれば、優秀な連中はいくらでも呼べる。少しでもサボったら伝家の宝刀「放校処分」を振りかざせばよいのだ。この先、さらにどうやってお金を捻出したらいいのですか?と聞いてくる輩がいれば、こう答えればいい。

「あんた世間の頭脳でしょうが。それくらい自分で考えなはれ」