2009/12/07

「本の食べ方」


昔、何かのテレビ番組の記憶だ。
「読むまで死ねるか」で有名な”ハードボイルド”ボードビリアン内藤陣(まだ健在なのだろうか...)が自ら経営するバーのカウンターに凭れながら僕をこんな風に挑発したことがあった。

「学生なら、飯一食分くらい抜いて本を買え!」

無論その時、彼の話だし、「本」と言えばハードボイルドのことなのだろうとは思ったのだが、その時以来、僕の頭の中に「本=飯一食分」という等式が出来てしまっているのは彼の責任というか何というか、否、やはり彼の責任である。

あれ以来、僕は一食分と言わず、数日先の食事代のことも考えながら、どれだけ粗食で我慢出来るだろうか、と考えながら本を買うようになってしまった。おかげで、家には食べ残しの本、そればかりか、箸もつけていない本が五万と転がっている。ちょっとした古本屋食堂である。

本は腐らないとは言え、それでも限度というものがある。一番癖が悪いのは、レシピとなる本を読み始めると、その関連素材を味見しないと気がおさまらなくなって、仕舞いには、関連素材の本まで集め始めるのである。思考肥満とはこのことで、それが原因でどんどん身動きがとれなくなり、自分で料理が出来なくなってしまっているのだ。

だからこの先、粗食用レシピを熟考する必要がある。空想のレシピに終わらぬ我が家の実践(実戦)家庭料理。
その名も、

「思考肥満解消レシピ」

当たり前の話だが、全てを知り尽くした者にとって物を書くなどということにほとんど意味はなく、その逆に、全てを知り尽くしたいと儚くも願う者こそが物を書く運命にある。ここは重要な点で、「分かったぞ!」という傲慢な瞬間が誰にでもあって、それが思考の足を引っ張る。分かったと思った瞬間、その先からすでに分からないことが次々と溢れ出しているにもかかわらず、驕慢な思い込みによってそこのところに蓋をしてしまうのである。これが思考肥満の原因である。しかし、この「分かったぞ!」がやがて消化(昇華)されなければならない、あるいは、ただそのためだけにある思考の食材なのであってみれば、それを放置しておくことは中毒症状を引き起こすしかない...。

ここまで書いてきて、「編集」という言葉が浮かぶ。尤も、粗食料理には直接関係しない風に見えるが、編集と言う言葉が生み出しかねない誤解は拭い取っておくべきだろう。

編集は、別に旨いとこどりのことではない。分散している旧来のデータを用いて新たなフォーマットに仕立て上げるのが恐らく編集の妙なのである。そこからまた新たなセリーが次々と生まれ、これまで結びつくことのなかったものが合わさって次の神経回路を作る。これなどは創作料理的なところがある。無論、そこには洗練といったことも生じてくるだろうし、新たなフォーマットにとって無駄なものは削がれる。ゴテゴテしていたり、ブヨブヨしているものはどれも洗練度が低いということになって、編集対象になるであろう。ここまでは編集術に関する僕なりの勝手な想像でしかないので、もう少し吟味が必要だ。

そもそも、この編集という方法が僕にはどうも苦手(不得手)で、これはセイゴウ氏に倣うしかないのだろうが、編集ではどうも本を食べた感じにはならないような気がしてならないからだ。しかし、粗食の妙技はやはり編集術にあるのだろうか。ただ、僕には『編集』よりも『変種』の方がお気に入りなので、暫しこれは熟考すべき課題として置いておくことにしよう。