2006/10/28

旧世界胃酸


今日は久し振りに書いてみる。
友人たちからの手紙への返答を差し置いても、だ。
もし、最近手紙を書いてくれた人がこれを読んでいるならば、申し訳ないという他ない。
いずれ出すつもりなのでご寛恕。

さて、今日は「遺産」について一言。
それには「世界遺産」が”もって来い”である。
このような新語を誰が考えたかははっきりしている。
旅行業者とグルになった学者たちか、学者たちとグルになった旅行業者のいずれかだ。
つまり、彼らだ。
私は以前からこの「遺産登録」を「唾付け行為」と呼んでいる。
といっても、こんなことをまともに人に話したことはない。
しかし、例えば、バーミヤン石窟がタリバンに爆破される映像を見て、どれだけの人が「遺産」のことに考えをめぐらせたか。
仏教の遺跡は他の遺跡とは格が違う。
というのも、仏教徒にとってみれば、そこには本来世俗的執着があってはならないはずで、あの石窟が崩れて無くなっても、諸行無常であるかぎり、仏教徒には痛くもかゆくもないはずだからだ。
こういうと、他の宗教はどうかという話になるが、これは、塵芥になってもならなくてもこの世での価値に頓着しないのが仏教だ、という前提でのお話し。だから、あれを残すことに血眼になるのは旅行業者か学者たちくらいである。
もし、衆生のうちから「残してくれ」という声が上がるのだとすれば、それは無論、潜在的観光客に相違ない。

だが、個人的には奈良の仏閣が好きでたまらない。だから、仏教徒にはなれない。
幼い頃、遠足でもないのに一時間の電車を乗り継いで、画板と画用紙片手に独りで絵を描きに行っていた。
感傷ではなく、あれはとにかく美しいのだ。

今残る遺跡や町を遺産に残すのに、人は死んでいく。
「世界遺産」は、芸術学的見地からして非常に正当な、そして、観光経済的見地からして至って効率的な運動である。

関係ない話だが、この夏、私はペテルブルクに二日間滞在した。
覚えていることと言えば、無論遺産のことではなく、十五年ぶりに再会した友人と中華料理店で大酒を食らい、酩酊状態で、彼が社長を務める日本文学関連の出版社へ彼の奥さんに会いに行き、その後、あるいはその前であったかはもう定かではないが、新調したばかりのズボンをゲロでドロンドロンにしたこと。そして、一緒に同伴していた女の子には愛想を尽かされたこと。
そこに私の見たのは、活発に消化を助けてくれた後の胃酸ばかり。
こっちの方がよほど珍しいので、今度観光用に携帯するのなら胃カメラだろうか。

ちなみに、私がその町で見たのは、空き瓶を拾い集める老女たちばかり。
これは無論、感傷のかさぶたにすぎない。