2009/04/24


今、机の両脇には本の束が山を作って、視界を邪魔している。実は、家内が実家に帰ってからほぼ一週間が過ぎてから、そろそろ良かろうと、”ハメ”を外したからだ。

ハメ外し、つまり、本の購入である。

本当ならば、ハメ外しというのはそれなりに愉悦を伴うものであるはずが、私の場合はどうしたことか、自ら抑圧に手を染めてしまうのだ。読むかどうかのあても分からぬ古本を、決まってこうどっさりと買ってしまうのはもはや一種の軽い病疾なのだろうが、それでも本は止めるわけにいかない。

「書きあぐねている人のための小説入門」という本を昨日から読み始め、同時進行で「感動の幾何学」という変な本を片手に置いている。別に、小説家になろうというわけでもない。むしろ、なぜ人は書くのかということがここ十年以上私の頭から離れない、自分でも奇天烈だと思う問いに苛まれているからこそこんな好事家の本を読むのだが、だからと言って、自分を好事家の類いに分けている訳でもない。

どちらも文学者の手になる本なのだが、かたや研究者としての文学者の本、かたや純粋に小説家の本。二冊を読んでいてやはり小説家の書くものの方が説得力があるのはどうしてか。素直ということか。

研究者にもよるが、型にはめていく書き方はどうも読んでいるわれわれを誘導しているのだという意識を与え過ぎてしまうのだろうか、読んでいてあまり心地よくない。退屈ですらある。研究も創作も、私にとってみれば、読ませるという意味では全く同じもので、こんな発見があったんだよ、という発見の経緯を説明されても仕方のないことで、むしろ、読書という行為そのものが発見であって欲しい。

「書きあぐねている...」を書いたのは保坂和志氏だが、彼の本は何冊かすでに読んでいる。ただ、読んだ本のいずれもが小説ではなく、小説家はこんなことを考えて小説を書いていますよ、的な本ばかりで、実際それが面白かったものだから、小説の方を注文してもあまり読んでいない。本人には悪いのだが、小説をこう書いているんだ、こうは書かないんだ、ということを読んでいる方が面白く感じてしまう最近の私には、小説一般の善し悪しはもうこの際どうでもよくなっているのである。

保坂氏曰く、「小説を書くこととは最初に解決不可能だと思うことを提示し、それを解くこと」だという。

人間がモノを書くという営みに興味のある人間にとって、作家自身が上のようなことを言うのを聞くのは大変面白い。作家も人間であるのだという最初の問いの前提に引き戻される気がする。作家は問いを立てるだけではないという、あまりに当たり前のことを忘れていたのだろうか。

「作家」という奇妙な日本語。近代のいつ頃から流通しているのかは寡聞にして知らぬが、私などは例えば小説が常に一種の問いかけだと考えていたものだから、自問自答の形式が作家の存在様態であるということ聞くのは、変な話、意外ですらあった。つまり、小説は読まれなければ始まらない、という一種の先入観が私にはある一方で、誰に読まれなくともそれはそれとして存在するのだろうというアウトサイダー的発想が常にあったのである。書いたもの(書くという思考)を読んでもらう、また、書くことを思考の片鱗として現わす、ということをもう少し突っ込んで考えねばならないのだろう。