2010/07/31

アカ文学チャ文学キ文学アカ文学チャ文学キ文学


文学と呼ばれるものについて少し書こうと思う。

私の回りには文学部を出たという友達はいない。
別に、大学を出ているからということがここでのテーマではない。
むしろ逆である。
少し遠回りになるが、こういう話からしていこう。
大学の文学部を出ていようが、ろくに文学の古典を読んだこともない輩は多いのだろうというのが僕の勝手な思い込みである。
専攻文学のみならず、「文学といえば...」何々の作品を読むのは当然のはずなのだが、読まないことになっているのだろうか。
そうではないと思いたいが、確証がないので何とも言えない。
しかし、無論、これが事実だとすれば、大学の教育プログラムに問題があるというのが正しい裁き方であろう。
読まないでいられるのは大学のプログラムがよほどいい加減か、査定が甘いかのどちらかに決まっているからなのだ。
恐らく、読まなくともよいプログラムになっていて、試験も口頭試問ではないからなのだろう。
直に聞かれたならば、読んでませんの返答では点がつかないはずだからだ。
しかし、今日はそんなことが話のネタでないことは冒頭で書いた。
今日の話は文学と呼ばれるものを考えるための一つのきっかけである。

世に「文学」という言葉が果たして必要なのかどうか、という原理的なお話である。
これは意外と皆考えてみようとしない。
特に、ナンタラ文学を専攻して、その歴史の陰に隠れてひっそりと「研究」と呼ばれるらしいことに精を出す人間には考えも及ばぬことである。研究者というのは無論、文豪などではないのだから、文学の将来を云々すると言っても、ほとんど外野席でのヤジに過ぎない。
これは悪口ではない。そうではなく、外野のヤジを過小評価する気は毛頭なく、むしろかつてのパリーグなどでは奇跡的なヤジも存在した。

人間がものを書くという営為について考えてみるにあたって、ブログの存在を忘れるわけにはいかないが、この話はもう少しあとにしてみよう。それよりも、人がものを書くことをわざわざ文学と名付ける必要はなく、またそうする理由もないということから考えたいのだ。
かつて、「作文」という言葉が定着する前までは一般に「綴り方」という言葉が一般に流通していた。文部省による名称変更という綱領範囲内のこととはいえ、この「綴り方」という言葉自体がかなり風化していることは否めない。しかし、特筆すべきは、「生活」という言葉と結びつくのは文学ではなく、この綴り方という言葉を置いて他になく、まさに生を書き留める、書き続けるという意味では文学などという範疇はあまりにも狭隘に過ぎるという点なのだ。
この教程のひとつとしての綴り方というのは身近なところでいえば「日記」である。幼い頃に日記を書かされた記憶は誰にでもあるが、この日記というものは流れでいえば「綴り方」の末裔に位置する。
日記というものには制約がない。文章読本風の気取りの有る無しなども念頭において書く必要などない。
文学性の有無をどうのこうのいうこと自体が最初から除外されている。かつて、ロシア・フォルマリズムの理論化の過程ではこの「文学性」とは何かということが大きな問題になったのだが、文学の枠に入るものが何かというその基準点に「文学性」というものが置かれようとした。結局、この問い自体は今から思えば疑似的な問いであったように僕には思えるのだが、それは何よりも書くということを一番にして人はものを書くわけであって、文学を最初において書くものなどはこの世にどれほどの数がいるかと言えば数えるほどしかおらず、抽象的であるかどうかを越えて、観念的、つまり、ここでは空想的とすら思えてくるからである。文学性を考えることよりも、ものを書くということ、つまり、ホモ・スクリーベンスの本質を本当はフォルマリズム理論家たちは抉り出すべきだったのだ、と思えてならないのだ。
ともかくも、人間はものを書く。その文学性の有る無しに関わらず、書くのである。その善し悪しを言い出すとそれは学的研究にはそぐわないものになる。では、原理としての書くということが本当に分かっているのかといえば、実は何も分かっていないのではないか。

上にも予告しておいたので、ブログの話をここでするとしよう。
かつて誰かが酒場で「なぜブログなんか書くんだ?」ととても大きな疑問符をつけて叫んでいたのを思い出す。
その方は編集者である。正直言って、「世間にはものを書くものが文学者よりも多くいるんだと言うことをこの人は分かっていないのかな」という呆れた気分が僕を襲ったのである。編集者はその上がってきた書かれたものを読み、そこに手を加えるか加えないかは知らぬが、とにかく、編集するほどのレベルになければ読むに値しないという職業的悪癖があるのだろう。度肝を抜かされるものを読まないと、あるいはそれに類するものが目の前にないと、価値がないのである。それも当然のことだ。なぜなら、彼らはそれを本にしたがっているからである。欲しいものは単なる書き物ではない。それは自費出版でやってくれ、というわけだ。あるいは、作家を育てるという言葉も存在する。恐ろしい言葉だ。本にするほどの価値もないものは世の中に出す意味がないというわけである。本=意味なのである。しかし、ここで大きな分かれ道、というか、編集者的誤解が待っている。編集者は世の中を相手にしていると思っている。しかし、これは誤解以上に、倨傲といものであって、意味などは編集者が検定したり決定するものではないのは分かり切ったお話で、逆に言ってみれば、編集者なんてものは誰にだってなれるのである。職業として、つまり、それで食っていけるかどうかはともかく、世間との値踏みをするだけのことしかしないというと言い過ぎだろうか。僕はそうは思わないのである。なぜなら、彼らが本という「意味」を世間に生み出すことは到底出来ないからである。ならば、そこで可能なのは世間との値踏みでしかない。どうでもいい内容のベストセラーですら意味を見出す。そこには値踏みがあるからだ。それを間違えると意味を失う。本はベストセラーにならないどころか、彼らからすれば、紙のクズなのである。クズ。意味のないもの。書き物ですらない、ゴミというわけだ。

ほほう。文学という尺度、これこそが本当に読まれるべき「作品」という尺度はどこにあるのか。その尺を外れているものは、ゴミなのか。そうかもしれない、彼らからすれば、しかし、世の中にはまだ何の意味も知らぬ書き物が五万と存在する。それを何の尺度で測れというのか。一番困るのがこの尺度なのである。先の「綴り方」というのはその尺度を「実感」とした。テーマを自由に選択して、実感を得られた自らの生活を書くという基準である。実感のないものを書いても意味がない。至ってプラグマティックな実践としての書くという営為を定義したのである。腹の底にすとんと落ちない概念などは無に等しい、ならば、実感を持って書くことの出来るものを書け、という極めて分かり易い訓示である。

僕自身、綴り方の実践をしているわけではないのだが、ここに見られる実感というのはブログの実践と実に近いと思うのである。「日記を他人に見せてどうする?」という問いの答えはここに隠されているのではないかと思うのである。文集というものがあるが、これなどを例にとって、「文集など人に見せてどうする?」という問いなどは浮かんで来ない。なぜなら、人に見せてなんぼというのが文集の存在意義だからである。巧く書く、というのは当然求められるべき目標である。それはあるにしても、しかし、編集者の言葉として「そんなもの誰に見せるんだ」という問い自体がそもそもナンセンスなのではなかろうか。文学作品、誰かに読まれてなんぼでしょう。書いて表に出した限りは、条件は同じなのである。誰かに読まれることを求める言葉がそこにはあるのだ。日記が誰にも読まれないなどと考える人がいるとすれば、その人は認識を新たにすべきなのだ。つまり、いずれその日記は誰かに読まれる可能性があるのだ。あなたが死んだあと、偶然それは日の目を見ることだってあるのである。それを意識して書くも善し、そうでなくても善し。そこに実感がこもっていれば善いのである。あるいは、人を楽しませようという意気込み、それすらも実感なのである。生活が書かれていなくても善い。空想でも善い。実感さえあれば。

実感、それは生きていることの、あるいはその受け身形、生かされていることの証しなのだから。

最後に。
デジタル・パブリッシングの問題について一言すれば、これによって書き物の質が下がるどうのこうのというお節介はする必要はない。そもそも、上の文脈からすれば、生の質は千差万別であって、それに一々口を挟むことの出来る聖人君子などいないのだから。大事なのはその質を善し悪し関係なく晒すことにこそ書くことの意義はまず第一に求められるのだから。文学部のみなさん、この辺のこと分かっていらっしゃいますか? まあ、分からんでも構わんことかもしれんがね、大文学やってるうちは。