2006/01/25

異なる者

カザフスタンのSF作家ルキヤーネンコ原作の「夜の警邏」(ナイト・ウォッチ) が数年前に映画化され、この春には日本にもお目見えすることになった。監督はチムール・ベクマンベートフ。

ポストソヴィエト期を代表する「ブロックバスター」映画としてロシアではすでにカルト的人気を誇るこの映画に注目したアメリカのフォックス社は、即座にその上映権を買い取った。また、遅ればせながらも、この現象に合わせて原作の日本語訳も去年末に出版されている。そこで今日は、この原作ではなく、映画化された「夜の警邏」をめぐって綴っていきたい。

すでに日本語訳の題名は「ナイト・ウォッチ」となっているのに、敢えてここで「夜の警邏」としたのにはそれなりの理由がある。また、これを簡略化して「夜警」と呼んでも別にいいのだが、この作品には「デイ・ウォッチ」、「ラスト・ウォッチ」、「ドーン・ウォッチ」という続編があるため、第一作を「夜警」してしまうと、その後に続くべきしっくりくる日本語が準備されていないため、バランスが悪い。だから(?)、「夜の警邏」なのである。

さて、映画である。
映画と同様、「警邏物語」に登場するのは「光」と「闇」である。しかし、それはーこれまた映画の成立条件と同じくー単なる前提であるに過ぎない。むしろ、「警邏」の始まりは、この世界を構成し、均衡関係を維持するべく結ばれた二極間の「和議」「合意」が崩れるところに置かれる。もう少し詳しく述べるべきだろう。この世界はその最初から「光」に満たされていたわけではなく、その傍らで「闇」を持ち、常にその両者の間でヘゲモニーをめぐる争いが繰り返されてきたのだが、その二つの力は互いを殲滅することに消尽され、いつの日か両者諸共絶滅する事を悟ることになる。そしてそれ以降、休戦を意味するはずの「和議」が結ばれる。それは、光の領域からは闇の力を、また闇の領域からは光の力を排除するための「警邏」を互いが引き受けるというものであり、それによって勢力の、ひいては世界の均衡を目指すというものであった。ところが、いつの日かこの二つの均衡関係を破る者が現れるーこれが、物語の主役たる「異なる者」である。

「異なる者」の前に「物語の主役」という言葉を置いた。
物語にはその終わりをもたらすはずの主人公がいる(とされる)。「物語」という枠はそれが枠であるかぎりは「終わり」を要請される。あるいは、それを自ら求めすらする。それが救済という形であれ、殲滅という形であれ。だから「物語」があるかぎり、例えば、キリストがこの世界に救済をもたらすためには世界はその終末へと導かれなければならない。これも「終わり」のヴァリアントであり、彼もまた肉と霊に引き裂かれた者=「異なる者」の歴史的典型である(無論、この「引き裂かれ」という言葉には異論があろうが、ここでは境界点に立つ者という意味で受け取って頂きたい。そうでなければ、砂漠での「誘惑」という言葉が持つ意味は決して理解されないだろうから)。

さて、ここでもう少し説明を加えたい。
「異」とは「他」の謂いではない。それはまた単なる化け物でもなければ、肉欲を指すのでもない。それは、光あるいは闇の領域を動き回りながらも、決してどちらにも加担してはならないことを掟とした者たちであり、同時にその二つの間で引き裂かれている者のことである。「異」をめぐる物語は従って、常に二つの力がぶつかり合う境界点に立たざるを得ないという意味での脆い均衡点を維持すること、よって、砂漠における数々の「誘惑」を克服してもなお忍び寄る力(どちらの力かは知ることが出来ない)がざわめく緩衝帯である。

話は少し逸れてしまうかも知れないが、「外交」という言葉は「外」と「交わる」から成り立っている。語源は知らずとも、そこに倫理らしきものの要請を嗅ぎ付けることは出来るだろう。だが、そこに要請されているのは「均衡を破らない」という倫理であると同時に、「譲らない」ために必要な権謀術数であり、そこから次のものが導き出されるー「諜報」である。これはいわゆる「外交」以外の道筋を常に自ら用意しておくための「インテリジェンス」のことであるのだが、この英単語は時に「情報」という無臭性の言葉に置き換えられることがあるが、上の「権謀」を抜きにしてこの「情報」には何の意味もなく、このとき翻訳は芳香剤と成り下がる(Odecolon-traduttore, traditore!)。

映画原論をここで書くつもりはなかったのだが、「夜の警邏」を見ることによって何かが分かるような気がする。それは、最初にも書いた「光」と「闇」の主題をめぐる「異」の倫理と映画の倫理のことだ。

光だけの映画などないように、闇だけの映画もない。分かり切ったことだが、映画に内包された「光を見る」ために、われわれは予め用意された「闇の箱」に放り込まれる。あるいは、進んでその中に入り込む。映画はだから、予め準備されたこの二つの領域の真ん中に立つことをわれわれに絶対的に要請してくるわけであり、それを受け入れることによって映画は成り立つ。ここではまだ解釈は問題ではない。あるいは、解釈はこの「異」の領域を形作る観者である人間がそこに、つまり「異」であり続けることに耐えられないギリギリの状態のことなのかも知れない。確かに、こう言い切ってしまうと少し強すぎるかもしれないが、「解釈」は「均衡を破る」ことなのであり、その意味ではこの警邏物語の主題と同様に、危険な「異なる者」の誕生を常に意味しているのかも知れない。

第一作は他でもない、この均衡を破った「大いなる異人」の誕生譚なのである。そして、それは、危険な「解釈」についての物語ではなく、「解釈」が解釈であるかぎり、そのありきたりな危険の常に生まれざるを得ないことをめぐる物語(警邏は常に巡回する)でもある。