2007/08/23

日本荒口野朽連盟(荒野連)

「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。

二つの文を比べてみよう。

「審判は絶対的である」(1) 
→ 主語=審判、述語=絶対的

「絶対者は審判である」(2) 
→ 主語=絶対者、述語=審判


(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。

(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。

(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。

Some like it CUT.


日本人は、切られるのがお好き。
だから、切られないと、自分で自分を切る。
正直、現代日本人がサムライ魂という時、両眉の周辺の筋肉が引きつれを起こす。

昨日、またマスコミに小指が届いた。
ご存知の通り、靖国がらみだ。暴挙とまでは言わないが、大概、こういうのを聞くとイヤ気がする。
仲良し公安にでも教えてもらったのか、はたまた、伝統芸なのか。
まあ、どうでもいいが、手にはあと29関節も残っているので、問題なかろう。

これは冗談に過ぎないが、もしかして、指切り芸が達者な連中の指先は爬虫類ほどの再生力があるのかも知れない。
牢屋に入ってからの更正力はなくても、恐らくいくら切っても生えてくるに違いない。

僕にはせいぜい、湯上がりの爪を切って抗議するくらいしかできない。
でも、こちらの方が長続きする。爪だって、元々は指の細胞なのだし。

最後に。
「ラストサムライ」を見て、これのどこが感動する映画なのかと思った。
コメディとして取るなら別だが、あれではほとんどキホーテの世界である。
あれなど、諜報機関の外国人に煽動された顛末を追ったものに過ぎず、どっかで誰かが嘘をついている気がした。
でも、仕方ないか --- Some lie(さむらい).

P.S.: 「お熱いのがお好き」を思い出した。主人公のジャック・レモンがどさくさ紛れに女に変装し、そこで素性を明かさずマリリン・モンローを騙し続けるうちに、彼女に恋するという話。変装と攻略、男と女、外国人とサムライ---記号が違うだけで、モチーフは同じことに気付く。