「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。
二つの文を比べてみよう。
「審判は絶対的である」(1)
→ 主語=審判、述語=絶対的
「絶対者は審判である」(2)
→ 主語=絶対者、述語=審判
(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。
(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。
(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿