先ず想像してみよう。
突然、自分の体から無数の突起が浮き上がり、見る見るうちにその体は円筒状になって、その回転とともに突起を小さな舌で一つずつ爪弾き始める...。
今、大学でゴーゴリの「狂人日記」を読んでいる。
今日の授業で読んだのは「脳の在処』に関する箇所だった。
「人は脳が頭の中にあるって思っているようだが、実は、脳ってのはカスピ海方面から風に乗ってやってくるんだ」
9等文官として役所勤めする主人公ポプリーシン。本当は貴族の出なのに、どうしてよりによって自分は書類の抜粋だの清書だの、上司の羽ペンを削るだのと、どうでも良い仕事ばかりしているのか、否、本当は中の下の役人なんかじゃなくて、スペインの王なんじゃないか、と考え始めるシーンである。
文学作品に表現された「狂気」などと一括りにしてしまうと、大した実感は得られない。そもそもどんな文学作品を読んでも、読み手はすぐネガティヴな想像力を起動させてしまうので、ついつい「狂気」みたいな言葉を軽はずみに使ってしまう。実はもっと、この「狂気」じみたことというのは日常に転がっているに違いない。それを今日、僕は実感した。
僕の住む家は、日本には珍しく、細い道を挟んで立て込んた軒並みがまるで中世都市の深い迷路のような場所にある。つまり、家自身が巨大な迷路の壁を作っている。その道を挟んだところに一軒の家があり、授業からバイクで家に帰ってくると、そこから女性が顔を覗かせていた。ご近所なのでご挨拶をする。それを特に嫌がる理由もないからだ。
井戸無しの井戸端の話が始まる。
ただ、その話の雲行きが怪しいことに少し気づく。何ヶ月も話をしていなかったので、彼女の風貌にどこか老けてしまったところがあるのにふと気づくが、最初のうちは、さもありなん、以前はこめかみ辺りの白髪に気づかなかっただけなんだろう、と思い直し、また話の軌道に乗る。いや、その振りをした。
”先生は頭がいい人が就く仕事、給料は高かろう、否、初任給程度、家賃はいくら、こんだけです、いやいや、まさか、いやホント、定職にあらず、おたくの家の家主はゴミ会社経営よ、前の住人はそこの雇われ人で、あんたの仕事は肉体労働とは比べものにならへん、うちの亭主も肉体労働もしてて...で、ところで、おたく家賃はいくら、こんだけです、ほお、で、おたくの家主はゴミ会社経営でね、前の住人雇われ人...。”
「え、待てよ...これはスパイラル・トークだ。」(僕の内言)
自動機械というのがあるが、これは一定のアルゴリズムに従ったプログラムによって稼働するものだ。つまり、からくり。人間との違いは、このからくりを意識出来る能力を持っていないことだけで、他の点では似通っている。ただ、人がこのからくりで動いていることに気づいていない時、それを端で見る人間は「戦慄する」。
喩えはオルゴールでも構わない、音の小箱、ミュージックボックス。
旋律が自動で奏でられる。聞く者は少しもその自動旋律に戦慄したりはしない。言葉遊びが過ぎるが、人間は普段、随意の旋律を奏でるからこそ戦慄しないでいられる。ところが、突然、今日起こったような不随意の旋律が聞こえてくると、戦慄してしまうのである。
もう一度想像してみよう。
突然、自分の体から無数の突起が浮き上がり、見る見るうちにその体は円筒状になって、その回転とともに突起を小さな舌で一つずつ爪弾き始める。
これはいわゆる「不気味なもの」のことだ。誰でも知っているつもりでいるものだ。しかし、日常にこれが溢れ返るようなことがあるとしたら、人は多分まともに生活することなどできない。