2009/02/23

不妊官僚



バチカン観光から数日が経った。

何も新たしきことは起こっていない。
最初から仕組まれていたことだと勘繰る輩も多い。
この手の騒ぎ、スキャンダルにもならぬものの裏を取って記事として配信する通信社・新聞社は恥を知れ、と言わねばならないが、まあ、この際どうだっていい。

しかし、だ。
以前にも書いたことがあるが、大臣とは、文字通り、臣の長の謂であって、いわゆるsubjectの親玉である。
このスブエクトゥムの中にはヒエラルキーが当然のように生じて(上下スライド式の階段)、皆は梯子を踏み外さないようじっと固唾を呑むのを常とするのである。

年功序列はその年齢を基準とした同型システムで、儒教思想がどうのこうのという以前の話として、家長に対する家臣間の摩擦を最小限にするための、至って簡易な階層システムなのである。これが合理的であるかどうかは、また別問題だとしても、そこに個人の意志を膨張させる思想は極力最小限に抑えられねばならず、したがって、儒教とはその集団的合理性の結果産み出されてくる副産物にすぎない(無論、孔子が放浪する呪術家であったという説[白川説]もあるので、これだけでは収まり切らない話だが。ただ、集団的生の記憶を連続させて時間サイクルをそれなりに巧妙に社会システム化しているがため、儒教的社会は一気に破綻することを免れているし、またそれを破壊させることも極めて困難である。

今回起こったのはまさに、邪魔な奴の梯子の桁を鋸でこっそり切り落とし、ナラクに落ちるのをそのまま傍観するというほどのことにすぎない。何も陰謀があったなどといったことではない。これなどは日常茶飯事的(システマティック)なことであり、しかも、現代日本官僚ならば当然黙認する手段だったのである。あるいは、われわれもこれ以外の方法がなければ消極的にせよ採用するライバル消去法である。イジメもこれと構造的にはまったく同じである。

こう考えてみると、非常に象徴的な事件であったとも言える。
つまり、国益という点から言えば、現代日本の官僚システムは、仮想的主権者が最後に登り詰めたところにあるはずの国益に到達する桁などそもそも存在しない無窮の家臣団梯子だということである。

単純な話、国の恥というのはこの際どうでもいいことである。(たとえば、集団的自衛という言葉の意味も本当はここから考えてしかるべきであり、これなどは、最終判断・決定を行えるものがどこにいるのかという問題を、「恥」だの「国辱」だのといった情緒的な言葉で粉飾しているのと同然なのである。)

高級クラブマン=官僚はこの手摺りなし階段に足がかかっているあいだは少なくとも、国益を優先するという建前(クラブ会員権)を手放すことはないが、少しでも足を引っ張る奴がいれば、それが大臣であろうと誰であろうと、お構いなしにパージを開始し、束の間スポットの当たった政治家人形を再び舞台袖へと追い返す。

ちなみに、蟻の社会と人間社会の社会的特性の違いとして、不妊カースト(繁殖行動を起こさない階級)の存在が挙げられるそうだ。これが現在では、蟻社会の社会性を新たな定義となったことにより、統率者、つまり、最終決定権を有する者の存在は蟻の社会性の定義からは余剰とされるようになったという。しかし、この蟻の社会性特徴は上に挙げた官僚梯子の比喩と恐ろしいまでに似ている。人間社会の一般的な社会性特徴とは区別されるはずのこの不妊カーストこそは、われらが家臣団ではなかろうか。あるいは、それよりもひどいかもしれない。無窮の梯子に身を寄せて、実際には何も決定することがないし、出来もしない。女王蟻のお産を分業して助けるといいながら、最終的な責任をとらないのだから。これが、不妊官僚である。