2009/04/28

禁止してはならない


道路を歩いていると信号無視をする人が少なからずいる。 私も時にはその一人となる。 急いでいるからとか、待つのが面倒だからとか、色々と理由はある。 禁止というのは、その「色々ある」というところに一切理解を示さないところに始まる。 もし、その「色々あるわよね」という相槌を一々打っていたなら、禁止は成り立たない。 禁止の目的として、制御する、保護する、規制する、として色んな理屈づけはあるが、要は、「事情」を理解しないところにすべては始まる。 あるいは、インフルエンザに罹ったといってマスクをしてみる。皆に迷惑をかけないためだ、とか。 あるいは、道ばたで殴られたけど、俺はプロボクサーなので殴り返さなかった、とか。 この禁止、フロイト風にはこの無理解を、「自我」を乗り越えたもの、つまり「エス」という訳だが、どうもこの個から超個(公共性)への一足飛びを鵜呑みにするからこそ、共同体はそれ自身であり得るようだ。 でもやはり、「エス」だとか言われたって、急いでいる人間にはそんなことお構い無しである。どれほど危険であっても、だ。その時、この個は超個の網からはみ出していて、その後でまた網に戻ってくる。 これを他の個もおっ始めるとどうか。 歯止めの網は網でなくなり、緊密に縒られていた糸は解かれ、仕舞いにはバラバラとなる。 共同体の危機、社会の危機、堕落、モラルハザード...まあ、色々な言い方で呼ばれるのは、要はそういった状態のことを指している。 最初から大きな「エス」が実はあるのではなく、個それぞれに超個は備わっている。それがフロイト的なエスなのだが、そのコントロール能力は絶大で、むしろこれが無ければ社会など最初から成立していない。 ただ、人間的個を集団が育んでいくに従って、個は人間性を、集団は社会性を帯び始める、というか、それを求め始める。養ったその見返しにという理屈だ。そして、そんな見返しなどヤナこった、と突き返して超過する個は、その存在そのものが何かはみ出したもののように見えてくる。つまり、邪魔なわけだ。 そして、次がトリッキーなのだが、この歪んで見える個を人格として認めてやるのが父なる法であり、また同じことだが、部分と全体のそれぞれが持つ「エス」のあいだに楔として打ち込まれるのが法である。 逆に言えば、歪みを補正するという意味で、社会全体の歪みをむしろ表面化させているものこそが「法律」だと言える。 健康増進法(?)だったかどうか、名前をはっきり覚えていないが、これなどもそうだ。 どれだけ長寿の国であろうとも、その内実が透けて見えてくるではないか。 早く死なせてやればいいところを、不随意に生かし続ける病院、またその病院の病疾的体質... そんな国、少しも健全な国ではないし、法律で増進するわけが無い。 このような我らが父なる法は、死に際の何たるかを考えていないようだ。 とにかく、健康増進という名前自体、死の隠蔽すら感じさせる。 いや、もしかすれば、この法の隠蔽しているものは、自らの精神の死なのではなかろうか。

2009/04/24


今、机の両脇には本の束が山を作って、視界を邪魔している。実は、家内が実家に帰ってからほぼ一週間が過ぎてから、そろそろ良かろうと、”ハメ”を外したからだ。

ハメ外し、つまり、本の購入である。

本当ならば、ハメ外しというのはそれなりに愉悦を伴うものであるはずが、私の場合はどうしたことか、自ら抑圧に手を染めてしまうのだ。読むかどうかのあても分からぬ古本を、決まってこうどっさりと買ってしまうのはもはや一種の軽い病疾なのだろうが、それでも本は止めるわけにいかない。

「書きあぐねている人のための小説入門」という本を昨日から読み始め、同時進行で「感動の幾何学」という変な本を片手に置いている。別に、小説家になろうというわけでもない。むしろ、なぜ人は書くのかということがここ十年以上私の頭から離れない、自分でも奇天烈だと思う問いに苛まれているからこそこんな好事家の本を読むのだが、だからと言って、自分を好事家の類いに分けている訳でもない。

どちらも文学者の手になる本なのだが、かたや研究者としての文学者の本、かたや純粋に小説家の本。二冊を読んでいてやはり小説家の書くものの方が説得力があるのはどうしてか。素直ということか。

研究者にもよるが、型にはめていく書き方はどうも読んでいるわれわれを誘導しているのだという意識を与え過ぎてしまうのだろうか、読んでいてあまり心地よくない。退屈ですらある。研究も創作も、私にとってみれば、読ませるという意味では全く同じもので、こんな発見があったんだよ、という発見の経緯を説明されても仕方のないことで、むしろ、読書という行為そのものが発見であって欲しい。

「書きあぐねている...」を書いたのは保坂和志氏だが、彼の本は何冊かすでに読んでいる。ただ、読んだ本のいずれもが小説ではなく、小説家はこんなことを考えて小説を書いていますよ、的な本ばかりで、実際それが面白かったものだから、小説の方を注文してもあまり読んでいない。本人には悪いのだが、小説をこう書いているんだ、こうは書かないんだ、ということを読んでいる方が面白く感じてしまう最近の私には、小説一般の善し悪しはもうこの際どうでもよくなっているのである。

保坂氏曰く、「小説を書くこととは最初に解決不可能だと思うことを提示し、それを解くこと」だという。

人間がモノを書くという営みに興味のある人間にとって、作家自身が上のようなことを言うのを聞くのは大変面白い。作家も人間であるのだという最初の問いの前提に引き戻される気がする。作家は問いを立てるだけではないという、あまりに当たり前のことを忘れていたのだろうか。

「作家」という奇妙な日本語。近代のいつ頃から流通しているのかは寡聞にして知らぬが、私などは例えば小説が常に一種の問いかけだと考えていたものだから、自問自答の形式が作家の存在様態であるということ聞くのは、変な話、意外ですらあった。つまり、小説は読まれなければ始まらない、という一種の先入観が私にはある一方で、誰に読まれなくともそれはそれとして存在するのだろうというアウトサイダー的発想が常にあったのである。書いたもの(書くという思考)を読んでもらう、また、書くことを思考の片鱗として現わす、ということをもう少し突っ込んで考えねばならないのだろう。