シー・シェパードの記事を読む。そして、彼らのサイトに飛んでみる。
一番先に目に入ったのが、左側真ん中あたりにあるコラム「サポーターズ」。
ダライ・ラマは好きでも嫌いでもない。坊主だからだ。猊下と呼ばれる彼だが、私にはただの坊主でしかない。坊主という言葉が嫌ならば、単に仏教徒と言ってもいいが、聖職者は皆私にとっては坊主だから仕方がない。いずれにせよ、ダライ・ラマの登場は意外でもなんでもなかった。ヨーコ・小野でもピッタリきそうだが、自由を半ば奪われている亡命者を「サポーター」にしたところなどは美学的に正しい。
エコロジーと仏教はすぐに結びつく。しかし、その理念的繋ぎ合わせをやり過ぎるとジャイナ教みたいに蚊も殺さないお人好しになってしまう。だから、どこかで線引きと言うか、どうも仕方のない我ら「生態系長者」の首を守るサポーターが必要になる。その教えが仏教なのだが、結局ここには宿命的な破綻が見える。宗教団体であろうが保護団体であろうが、生を相手にし始めると、どこかで底が見えてしまう。宗教は生の底なしであることを標榜して憚らないのだから、環境団体が彼らに縋り付くのは常で、しかもそれは不条理ですらある。理由は単純で、生の底など彼らは微塵たりとも信じていないからだ。これこそ、彼らが宗教に救いを求める時に見えてくる論理的破綻だ。
ジョン・レノンが偉大だと仮にも思えるのは、「戦争は終わった」というのが彼の戦争の合い言葉であったことで、これは彼が理想を掲げた瞬間に自らの論理的破綻を倫理的乗り越えようとしたことを証しだてることにこそ彼の闘いがあったということで、こういった闘いにはそもそも終わりというものが前提されていない。ジョークによって人を困惑させるだけでなく、惑溺させることほど、高等な技はない。
仏教の話に戻るが、人類という娑羅双樹の花は結局はいつか色褪せるのが落ちである、というルサンチマンがこの宗教にあるか無しかはともかく、坊主の話は大事なことを言うのをなるべく避けようとする。方便というやつだ。話しても分からない相手に色々御託を並べてもためにならないから、それなら言わないでおくという相手への配慮だ。そもそも、仏教は行あってのもので、それもなしにいきなり梯子の天辺には上がらせてもらえない。だから、それを真に取ってしまう輩が多い。
シー・シェパードのサイトは言うなれば、修行なしに何かお墨付きでも貰おうという類いのものか、さもなければ、捕鯨妨害を自らの修行とみなしているかのどちらかなのだろう。しかし、それが修行とは見えないのはなぜだろうか。
WE WON'T STOP UNTIL WHALING ENDS.
捕鯨停止こそが終局の目的ででもあるかのようなスローガンだが、これは修行ではなく、興行に近い。
彼らのメンタリィは基本的に「傭兵」のそれに似ている。ただ、そこには捻れがある。傭兵はそもそも職にあぶれたものがならざるを得ない有り難くない職であって、理念からはもっともほど遠いと思われがちな連中である。しかし、軍属として雇われるには自分で武器から何から調達せねばならず、官製のお仕着せなどない。勝手になりたい者がなる職業なのだ。この理念のなさが彼らに理念を渇望させる、と考えるならば、シー・シェパードが海洋動物の尊さを求めてやまないのはあまりにも当然すぎる。海洋動物は今や最大のお得意さんであり、ここでもし日本が捕鯨を止めたしたら、お得意さんはいなくなるだけの話で、別の得意先を見つけ、またさらに崇高な散財を続けることになるだろう。だから、本当のスローガンはこうなのだ。
WE WON'T STOP UNTIL THE WORLD ENDS.