2005/10/14

『キン・ザ・ザ』という「記憶」


『キン・ザ・ザ』
最近ではDVDにまでなって、ずいぶん世の中も変わったものだと思う。個人的にはこの作品の想像力を超えたSFはまだ見ていない。

いわゆる「スタートレック」風のエンドレスものを除くと、ハリウッドのSFは二つに大別出来るのではないかと常々思っている。これは非常に単純である。つま り、人類の歴史がワン・サイクル閉じるという意味での「世の終わり」を契機にして考えると、そこには「終末前SF」と「終末後SF」があるのではないかと いうものだ。前者から見てみよう。

一番の例が『未知との遭遇』(『E.T.』でもいいが)である。異星人、これはサイクルの問題と関係な いかに見えるが、無関係どころではない。これは、オカルト性を排除した終末論の現代的焼き直しであって、終末の描き方が戦争重視(異星人襲来による最終戦争)へと流れずに、宥和へと重心を移動させたからそう見えるに過ぎない。未見だが、『宇宙戦争』は地球と地球外の二つの世界の間の「戦争」に他ならないし、そのプラットフォームには太古から世界を支配する原理としての未知なる力が前提となっている。それとの対決は歴史のサイクルが閉じる瞬間を描くということであるし、SF的な関心はもっぱらそこに向けられるだろう。そして、それは今まで知らずにいた自分たちを知悉する人類こそがテーマでもある。ということは、これは世界の記憶、あるいはアイデンティティを最終的に確認させることをめぐる物語でもあるということだ。さらに言えば、映画そのものが記憶確認、 より厳密には人類が何であったかということを知らせる媒体となるという意味できわめて教育的ですらある。ハリウッド教育映画。

これに対し、「終末後SF」には当然、記憶追認というものはない。アイデンティティはすでに確認され、サイクルは新たなものとなっているからだ。「自分のことなど とっくに分かり切っている自分」というのが今度は主人公になる。誰に教えられる必要もなく、記憶は自分のもので、捏造や簒奪などあり得ないし、自分からも求めはしない。つまり、一度閉じられた過去はもはや後戻りしてまで取り戻す必要のないものとなって主人公に預けられている。これはいかにも「過去を所有する」という意味に於いて主人(公)らしい。しかし、50年代のディックの原作を見れば分かるように、この確実なアイデンティティも再び解れ始める。ディックものが再び記憶=アイデンティティの危機をテーマにせざるを得ないのは、サイクルそのものが一度閉じてしまったからこそ生じる危機がやはり存在するからである。ここではオカルト性は希薄になる。「一回切り」であることを主旨とした終末論的物語伝統にはなかった、いわば、金輪際完全に断ち切ることの出来ない常態的危機がここからは始まることになる。

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ここからが今日の本題。

製作は85年だっただろうか、冒頭に紹介した『キン・ザ・ザ』は最初にゲオールギィ・ダネーリア監督が宇宙版ロビンソン・クルーソーを思いつき、脚本家のレゾ・ガブリアッゼと共同で書き上げたものだが、執筆だけに2年半を費やしたらしい。奇妙な映画だっただけにダネーリアというビッグネームがなかったならばまずは実現しなかったとどこかで監督本人が語っていた。

ソ 連・ロシアSFを全て見たわけではないので、次に言うことに説得力がないといわれて も仕方がない。ただ、『キン・ザ・ザ』だけをとれば、そこにある主題としての記憶への視点がずいぶん異なっていることに気づくのである。クルーソーが題材 であることからも分かるように、そこにいる主人公たち(マカロニを買いに出たエンジニアとバイオリンを届けに行こうとしていたグルジア人学生=地球人)自体が異星人であり、E.T.に他ならないのだ。しかも、彼らの持っているものといえば、ぶどう酢とバイオリン(本人たちは弾けない)とマッチ箱(このマッチが映画ではくせ者なのだが)だけで、これで戦争など起こしようがない。彼らの過去は自分から断ち切ろうとする以前に、呆然自失のあまり、振り返るまでもなく遠い記憶になってしまい、しかも、砂漠の惑星ではもはや自分が誰かということを証したてる意味すらない。つまり、歴史との決着やアイデンティティ危機の解決はどこにも顔を出さないのである。そこにはひたすら郷愁があり、しかもそれを上回るばかりの絶望しかない(だが、一見それほどの 悲壮感は漂っていないのが不気味でもある)。言い方を換えよう。記憶は無論問題ではあるのだが、それは「記憶に関する」映画という意味ではなく、この「映画そのものが記憶」であると言ったほうがよいかも知れない。その象徴として、記憶を消された状態で主人公の二人は無事地球に帰還し、地球の外へ放り出される直前の場所に戻るのだが、そこに通りかかった清掃車の点滅ランプを見た瞬間、彼らは宇宙で同じようなランプを頭に付けた上流階級異星人に向かってしていた卑屈なジェスチャーで挨拶をし、二人はお互いのことを思い出す。そしてエンディング。これは記憶の回復を意味するというよりも、映画そのものが記憶であったことを示しているし、それは映画が記憶になった瞬間だと言えるだろう。

ハリウッドの「記憶映画」は様々にモードを変えて今もなお反復されているようだが、最近では少しずつディック的テーマ群からの逸脱を始めているようにも思える。これについてはまた別の機会に書こうと思う。これはディック本人のテーマであるのでハリウッド映画に敷衍することは許されないかも知れないが、「歴史・時間のサイクルが一度閉じた後」という意味でいうならば、構わないだろう。アイデンティティが常に変化するものと考えるか、それとも恒常的であるとするかによって、このテーマへのアプローチはずいぶん異なるだろうが。

最後に。
ここ最近の日本映画の「記憶もの」はこれらいずれにも属さないと見てよいと思う。いずれも未見だが、テーマだ けを取れば、そこにあるのは「断ち切るべきであっても断ち切れない過去」という異質な記憶観があるのだろう。これには、正直言うと、ほとんど興味を感じな い。言葉は悪いが、「清算したい過去」があるので過去に戻るが、現実世界にはその清算しなければいけない相手はすでに存在しない...そして私はその人の ために生きていく等々...というテーマは少年少女趣味としか思えないし、それって、まるで過去を自分のものに出来るかのような前提でしか語ろうとしてい ないように見えるから...。記憶は頻繁に嘘をつくのだし。「あの1億、受け取ったかもしんない...」という某日本国元首相シカリ。
Кю!

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