2006/02/11

アリスとテレーズ、あるいはチャーリー・アンド・エンゲルス

「欲望果てる国のアリスとテレーズ」

AFP通信2006年2月14日送信予定の原稿から:

「欲望果てる国のアリスとテレーズ」

今春、ブリティッシュ・レズビアン・ムーブメントにおいて一つの大輪の花が開いた。その衝撃的な内容と芸術的な手法によって演劇界の話題をさらったデュオ劇作家、アリス・ドノヴァンとテレーズ・オッカムだ。

ポスト・フェミニズム運動の衰退していく中、彼女たちが今度持ち替えた武器はシニカルな「ダガー」とも呼べそうだが、その内容の赤裸々さを存分に理解するには、とにかく一度味わうしかない。誰もが読んだことのあるような話を彼女たちは求めちゃいない。その小気味の良さはエイジアンな辛みとジャーマンな苦みのブレンディングが生み出しているものかも知れないが、それは勿論、読者が判断してくれればいいことだ。

かく言う筆者も、実は、今から紹介する彼女たちの小品で出会った言葉のいくつかには今も首をかしげている。知人の言語学者に聞いても、「さっぱり分からない」の一点張り。これには正直、参っているのだ。だが、分からないなりにも、ほかの分かったことだけで充分満足しているのだから、なお一層彼女たちには惹かれてしまうのだ。

とにかく、この彼女たちが今冬世に問うた『D級数』からの抜粋を少し読んでみて欲しい。

『D級数のチャーリーとエンゲルス』by Alice Donovan and Terrese Occum(自動翻訳)

「Dedhalavoch級数」とは、No.1(俗にOssicusと呼ばれる。複数形はOssicua)の洪水に押し流される黄金人間の数が、二回目になるとその倍になると言う、とても信じられない嘘のような数学的秘術であることはカバラ系数秘学者の皆知るところである。これについては、どうしても話の続きをせぬわけにはいかない。

「二回目」というのは、実はOssicusとはずいぶん様子が異なる。Dedhalavochの繰り出すNo.2(俗にUntiumと呼ばれる。複数形はUntia)の雪崩に幸運にも呑み込まれた者たちは、その夜ミダス王の夢を見るというのである。だがその夜見ることになる夢というのは、手にするもの全てを黄金にしてくれるという魔法が切れてしまった後のミダス王の哀れ末路、後日談なのである。

今度の彼が手にするものは全て、価値形態論を論じた『資本論』第一巻に変わってしまうというのだ。絶望に取り憑かれた王は、逃げまどう侍従たちを片っ端から捕まえようとするが、その彼らはというと、阿鼻叫喚であるー

「お許し下さいませ、どうか、チャーリーになることだけはご勘弁を」

「私もでございます、陛下! どうか、エンゲルスにだけは魂を売りたくはございませぬ、お許しを!」

「何を言うか! 貴様どもは黄金になりたいと思わぬのか!」

ーと、見るも無惨なただの価値形態へと変られてしまうのだった。

そして不幸の舞台はこれで幕を引くわけではなかった。そこに、自分の周りを黄金の柱で飾り立てられていく王に哀れみを垂れんとして口づけようとした王妃があった。そう、その王妃すらも裏表紙に往年の髭面デュオ、チャーリー・アンド・エンゲルスの宣材写真を配したあの黴臭い『資本論』へと魅惑の変身を遂げてしまうとは!

嗚呼、この運命の女神たちの謀りごとによって変えられてしまった黄金人間たち!そしてこの夢が、実は黄金人間となった自分たちの夢であったことを知る、吉夢ならぬ既知夢だということも彼らには想像すら出来ぬことだったのだ。

その後、幸運にも、価値形態になることをただ一人免れたDedhalavoch Scatologiqueは、国外追放の憂き目にあった王を断首すべく、断頭台の階段に夜半すぎから降り積もった雪をせっせと掃き清めてしまうと、宮殿を岸壁近くに仰ぎ見ながら、価値形態の並び立つ渚でさざめくOssicuaとUntiaの波頭に身を預けて現れる一つ目巨人フィボナッチの姿を、見晴るかす水平線の向こうにいつまでも待ち続けていた。

ましおい。

0 件のコメント: