人間はもともと蛆に起源を持つもので、その蛆というのがぞっとしない単純極まりない管であり、中身は空っぽ、あるといえば悪臭を抱え込んだ虚ろな闇ばかりなのだ、という自らの考えを彼は打ち消すことができなかった。--- プラトーノフ
2009/06/16
JKBSK(自己分析)
われわれの時代を分析できるのか。また誰にそれが出来るのか。
ひとつ前のポストでコメントの話をした。
コメンタリーが”人間的”文化の動力を支える本質的問題であると述べた。
また同時に、その動力を生み出しているのが必ずしも生への意志だけではないことも述べた。
時代は常に自己分析をする。それがコメントであり、自己言及である。
例えば、メディアの命脈はこの自己言及にこそあり、その自覚があるからこそ命脈は保たれる。
さもなければ声は容易に怒号と成り果て、無責任な呟きへと縮んでしまうものである。
そんなことは誰もが知っている事であるが、それを知識として知っていても、体にまで浸透していないことはよくあるだ。
コメントは書くことである。しかし、それを書く時には書く当人は聞いている。最初に聞く人間である。
書くと言っても、これは声である他ない。さもなければ、誰にも聞こえないし、聞いてもらえない。だから、声に他ならない。
自らの挙げる声に耳を傾けない時代、あるいは、そうしようと思っても聞こえない時代というのがあるとするなら、
その時代は最も(既存の)文化に従順であり、図らずも耳だけの時代なのである。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、自らの声に耳を傾けないとなれば、そこに先ず最初に輪郭をはっきり表すのは自らの声を聞いていない人間の耳である。
それは、皮肉を込めて言えば、墨で書いたお経を体中に纏いながらも耳だけは無防備に残してしまった”芳一”の如く、聞く耳を持てなくなる耳だけの時代である。つまり、耳だけが残る。声を張り上げる事だけに賢明な人間たちの無数の耳だけが取り残されて行く時代である。
そこには何を聞く事も出来ない耳だけが残る。
文化に従順であるといったが、従順であるという事は自らの内側にしか耳が傾いていないという事、つまり、耳など要らないということだ。そのときにすでに自らの耳は耳ではなく、すでに人に呉れてやった体の一部に過ぎない。耳はオブジェ化するが故に、誰に呉れてやっても惜しくないのである。文化は耳よりも声を大切にするものであり、それが声の防護壁を作る。
耳の発生を考えてみよう。
耳が聞こえるのは声があるからであって、耳があるから声が聞こえるのではない。このプロセスが逆転してしまったのは、耳にふたをすると聞かなくてもすむという技を知ったからに過ぎず、最初から耳があったわけではないことを考えれば容易に分かる。もう一度いうが、声があるから耳にはそれを聞くという機能を担うことになったのである。
コメントというのは、この耳を機能させながら、自らの声を聞き続けるものでなければならない。そうしなければ、その耳は奪われる。つまり、機能不全ということだ。そのとき、惜しみなく自然は奪う。文化が自然に破れる瞬間である。文化と結託していたはずの耳は外的自然呑み込まれ、自然にも文化にも属することが出来なくなる。それが惜しみなく奪われるという意味だ。
最初の問いを少し変えてみよう。自己分析は可能なのか。
結論を言えば、一つの条件を満たせば可能であろう。
それは、耳を自らの文化に隷従させないことであり、自然に還らせないことだ。要するに、常に手入れしておくことである。
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