2010/03/01

ドミートリィ・ガルコフスキー「終わりなき袋小路」48

ドミートリィ・ガルコフスキー「終わりなき袋小路」48

No.44「ロシアとは西欧の実現なのである」への註釈

 物理的にロシアは、ぼんやりとした形の無いヨーロッパである。ベラルーシ人、ウクライナ人そしてロシア人とは、ヨーロッパ的多様性という三葉の花弁である。ヨーロッパのスペクトルとは何かと言えば、スウェーデンからイタリアまでのことだ。ロシアではそれと同じ距離の鬱々とした平原にやはり同じ数の住民が住んでいる。幽かに耳へ届く多様性の仄めかしがあるばかりだ。とは言え、ポモール(訳注:北氷洋・白海沿岸地域のロシア人)とテレーク・コサック(訳注:カフカース地方からカスピ海に注ぐテレーク川沿岸のコサック)も、スウェーデン人とイタリア人との比較となれば、どちらも似た者同士である。後者の場合、共通した歴史が彼らを結び合わせているにも関わらず(ヴァイキングが国家を創設したのはイタリア南部)、スウェーデンとイタリアの違いには驚くべきものがある。
 こういった単調さが観念の領域においてはロシアをヨーロッパの拡張器にする。あらゆる出来事は粗雑に、しかも巨大な規模において生じる。ロシアはヨーロッパ的イデアを拡張し、それを不条理にまで至らしめてしまう。ヨーロッパならば、バイロンといっても、それは蠅が飛んで去ったほどのこと。ロシアでは、作家となればそれこそ神様となってしまう。ロシアでは八世紀ものあいだ同じ一冊の本が読まれてきた。敬読してきたと言おう。校閲を重ね、細分してきたのだ。書いてある通りにものを考え、理解し、世界を分析し、世界と自らの内側に入り込んでいった。教条主義に信奉し、分かるようになるまで何度も繰り返し読んでは、世界の何たるかが分かるように自分に読んで聞かせてきたのだった。それ以外の本が鼻の下に押し付けられたことで、世界像は破壊し、文化の遺伝子は変異してしまったのである。ヨーロッパ的ルネサンス、ヨーロッパ的宗教改革、ヨーロッパ的啓蒙主義の複雑な時期がロシアで生じたのだ、否、突如飛び出してきたのだ、恐ろしいまでの呆気なさで 。

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