人間はもともと蛆に起源を持つもので、その蛆というのがぞっとしない単純極まりない管であり、中身は空っぽ、あるといえば悪臭を抱え込んだ虚ろな闇ばかりなのだ、という自らの考えを彼は打ち消すことができなかった。--- プラトーノフ
2012/03/23
ノーベルとエロ眼鏡
イチローにピンクのメガネは要らないのと同様に、文学に賞など要らない。 冗談のようだが、この主張は我々の想像を少しも凌駕しはしない。つまり、つまらないということだ。 色っぽい女そして男に色気を加える為に西部開拓期の売春宿のようなピンクの電灯照明などいらないし、これと同様に、ナボコフの、例えば「ロリータ」に賞など要らない。ロリータを書いた時のナボコフに必要だったのは僅かにいかがわしいオリンピアという出版社だけであったのだ。 そもそも、賞だとか毛羽毛羽しいものが人間ならびに人間の作ったものにへばりつくと、その時点でどこか安普請なハリボテに見えてしまう。貧乏症というか、そういった気高さのない代物になる。品だとか格だとかいって本を出すのも右に同じで、そういったことを売りにすること自体がすでに品がないということの証になってしまう。 安部公房がノーベル「省」に近かったというのは事実としては認められるとしても、あのアカデミーというのは一体どういう組織なのか。大体想像はつくが、敢えて「省」と書いたのは冗談ではなくて、これこそ冗談としか言えない組織なのではないかと思うからである。格付け組織である。誰が考えたのか? ノーベルには後ろめたさがある。爆弾を作っていたという単純で如何にも人間的な後ろめたさである。その肥大した良心の呵責がこのような文学賞だの平和賞だのを増やしていっている。良心を持たずして良心を売りにするという構図は市町村役場の役所の仕事における役人心理と同じである。何一つそこには本当の良心など要求されない。「お前ら俺らの税金で食ってんだろ」と言われる連中の仕事である。これは言い過ぎなのではない。事実である。それ以外の心理が働いている人ならば、役所からは即刻身を引いているはずである。ノーベル賞アカデミーは権威ある王室アカデミーからの依頼で仕事をしているはずである。問題は、誰が過去において賞を取る確率が高かったのかというインタヴューに答えてしまったことだ。「三島は安部よりも遠かった」とか何とか。役人がインサイダーとなって、もう何年も経っているからネタばらしをしても好いだろうといった軽い気持ちなのだろうが、その軽さは気持ち悪い。極端な話をするが、「自分が殺したんじゃないが、実は裏庭には屍体が埋まっていたのを村の皆で片付けて、20年前のお彼岸の時に墓地に葬ったんですよね。気味悪かった」みたいな裏話をしているようなものだ。 このリークのやり方は人の作品を貶すのとは違う精神構造から来るもので、それほど質の悪いものではない。 気味悪い、というくらいのものでしかないが、墓掘り人はもっと気高くあることを、それなら、願う。
2012/03/21
黒胆汁
二日かけて『メランコリア』を観た。今観終わったばかりである。
この映画の良さが一体どこにあるのかを考えてしまったのだが、映画を観たというよりも、ワーグナーを聴いたという感想が先に立つ。
人間のメランコリックな部分をこね上げて映画の形にするのは別にラースだけのことではないし、彼のような気質の作家はそこを基本にするのだろう。苦手な人も多いだろう。僕もその一人なのだが、それをどうこう言うつもりはない。
言いたいことは多分、ごく単純なことである。
あのような惑星が不可避的に近づいてくるという映像は夢の形象に近く、またそれゆえにごく身近なものですらあるということ。それはその夢を見る者の一種の破壊衝動ですらあるものを映像化したということ。これ自体は何てことはないもので、そんなものなら凡般のアクション映画が実現している。ということを言えば、この映画はアクション映画だとも言える。静かなアクション映画で、誰もアクションを起さない。起しているのは監督自身であるありきたりな結論である。いろんなレヴューを読んでみたが、金持ちがどうのこうの、(監督も含めた)鬱病がどうのこうのと、読んでいて、はっきり言うと、吐き気がし、これを書くことにしたほどだ。
すごく意地悪なことを言うと、破壊衝動はなくとも、われわれは日々自分の身体を維持する為に、すでに加工されたものだとは言え、食物を破壊し、それを摂取する。グルメ番組を見て”はぁふぅ”言って溜息ついているのは破壊行為をみて悶えているようなもので、何とも滑稽なのだが、それは我々が毎日していることと寸分も違わない。違うのは舌の感覚の問題で、グルメは早晩罪悪感を喚び起す破壊行為を如何に甘美なものにするかいうことに長けていることにしか関心がない。そう考えると、この手の映画も、あるいはそれを観る観客も、その破壊衝動の加工を吟味していることにもなろうか。もう一度言うが、飽くまでも意地悪で言っている。それ以上の意図はない。
このように、フロイト的に説明しようとすると、凡てはまるで夢のようなメタファーで終わってしまう。ユンクを使うと多分もっと酷いことになる。しかし、それでもラースの描く女性が(僕が観た限りでの話だが)ほとんど狂っているのはどうしてなのだろう。男性はほとんど描かれているとすら言えないし、女性ですら人間的な部分は影を潜めて、獸的ですらある。
ふと思ったことだが、変化はプロセスの一部なのだろうが、動物的なものに変化するプロセスは求められないということか。唐突だが、何故こんなことを思ったかというと、『グラン・トリノ』のイーストウッドですら変化を見せる。一見、人間らしくなっていく。最後は勿論、感情と理詰めの綯い交ぜになったところから生じる分かり易いものではあるのだが、それでも変化が見える。ある獸的なものに揺り動かされた結果として悲劇に気付くという変化だ。最終的で決定的変化が「死」であるという時、『メランコリア』と『グラン・トリノ』との間にある違いの何と大きいことか。
勿論、見当違いなことを言っているのは承知のことで、比較の対象にすべきではないのかもしれない。たまたま観たじきが同じだからこんなことを言っているのだが、しかし、この「死」という「後戻りのない決定的変化」をどう絵にするのかという問題は、いずれもが映画である限りは共通の課題としてもっているはずである。
キーファー・サザーランドの厩での屍体は、彼が人間としてすら描かれていないという点で、屍体ではなく、ということは他の誰一人としてあの映画では死んだものが映されていない。となると、何も変化を捉えていないことになるまいか。
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