人間はもともと蛆に起源を持つもので、その蛆というのがぞっとしない単純極まりない管であり、中身は空っぽ、あるといえば悪臭を抱え込んだ虚ろな闇ばかりなのだ、という自らの考えを彼は打ち消すことができなかった。--- プラトーノフ
2005/10/12
ソクーロフ『太陽』ーその2
色々と賛否があるみたい、この映画には。
好き嫌いを別にしても、米国の或る批評家がこの映画をSF作品にたとえているのを記事として読んだとき、これは冗談とばかりは言えないものと感じた。つまりこうだ、『Телец』『Молох』『Солнце』を「独裁者」三部作と形容している限りでは、このシリーズはあくまでも政治的テーマへのアプローチという面が前景に押し出される。しかし、仮に主人公たる三者を「独裁者」という共通項ではなく、死に瀕する手前での「救済者」というテーマで見る場合、そこにあった政治的前景は同時に黙示録な全景へと変貌するのではないかということ、かの米批評家の「サイエンス・フィクション」という形容に含まれていた揶揄を正面から受け止めて腹を立てたりするのではなく、前世紀初頭においてE.T.の如き奇天烈な「救済者」が出現したとき、それはいずれも「独裁者」であって、またそれ以外ではなかったということに思念を向けることが、三部作を見るに当たってさしあたり必要なことかもしれない。
ソクーロフの描く現人神は確かに、「錦鯉のごとく口をぱくぱくさせ」もすれば、「E.T.」のようでもあるだろう。そこに飛びつく批評もあって結構だ。ただ、映像手法の点からすると、至ってノーマルな描写ばかりであるし、他の作品と比べると実験性は極力抑えられていることはすぐに気づく。被写体に歪みは加えられず、時間構成上も直線的で、唯一、ヒロヒトが見る夢の中の映像のみが戦時の現実を反映した非現実性を担わされている。辿々しい表現になってしまうが、これは逆に、戦時という現実の非現実性と非現実的な夢という現実が「ヒロヒト=現人神」という半絶対的個人において凝縮されているのであり、この収斂点にこそ、戦争という非現実を、つまり戦時の異常性を解消する鍵があったということだ。だから、法的な戦争責任がテーマになっているということはもやは出来ないし、それは監督にもさほど興味があったこととも思えない。
アンチノミズムという態度があるが、これは危急の世界救済という黙示録的状況においても問題になる。つまり、この特殊状況においては、一般習慣化した規範、あるいは、教義的な内容に抵触する道徳的規範から敢えて離脱することによって、その危機的状況を解決しようとする態度である。たとえば、十七世紀のユダヤ人会衆の間で広まったサバタイ運動においてもまた同じく見られたもの。この態度に対しては墨守的な会衆から、メシアを僭称したとして指導者であったサバタイは破門宣告を受ける。彼は後にトルコで幽閉され、ユダヤ人としては絶対考えられないイスラームへの改宗を行う。法を侵犯してきた上に、背信にまで至った彼は、当然ながらユダヤ宗教史的には異端であり、ユダヤ宗教思想史的にも汚点である。だが、この異常さは上に挙げた神であることを止めた現人神の姿とにわかに重なる。法的責任という意味ではなく、それは超法的な態度に於いて。
またまた横道に入り込んでしまったみたい。
まあでも、われわれは危機解決が主題であった「SF」後の世界に生きていることだけは確かで、しかもその解決はまだ見ていないことも忘れてはいない。
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