2010/03/27

哲学とは官憲の賭けである


日常は”常に”非難に晒されている。というと、何のことやら訳が分からない。哲学的な物言いをしたいわけではないが、この日常が誰の日常であるかによって、非難の度合いも異なってくる。もしそれが哲学者の日常であったとしても、それが「日常」である限りにおいては衆生のそれと何ら違いがないとみなされてしまう。しかし、果たしてそうなのであろうか。日常をそのように定義してしまうと、哲学者の思う壷であると私は言いたいのだ。哲学者とて衣食住においては他の人間たちと同じであることには変わりないが、”変態”数学者(四六時中数学の難問にかかり切っている数学者をこう言うのは卑下ではなく、大いなる驚嘆をもってのこと)が日常にズッポリ浸っているとは思えないし、ことは程度の問題であるということである。哲学者とて日常批判をするその手掛かりとしているのは、存在の何がしを探求追求することをよしとする哲学的制度の枠内で許されているディシプリンがあると思い込んでいるからこそのことであって、その思い込みすらなくなってしまえば、哲学はその瞬間から消失してしまう。後に残るのは、人生の問題だけである。「なぜ無いのではなく在るのか」という問いにせよ、バナナを買うたびにそんなことを考えていれば、空腹と貧血で大勢がその場でへたばってしまう。その病名はライプニッツ症候群等々。

そもそも、哲学の顔というのは夜顔であり、なけなしの金を片手に居酒屋の喧噪に紛れて裏覚えの沈鬱な台詞を喚き散らすためか、はたまた、腰巾着を引き連れてバーの暗闇で女を口説くシミッタレ男の顔そっくりに、大抵が何か腹に据えているものがあるのである。日常がそんな具合だから、結局はそれは常に復讐の的とされてしまう。

「日常なんかなくなっちまえ! お前なんか嫌いだ! 非日常大好き! フリーク礼賛!」等々。

真理は誰が保証するのか。神と言ったらそれまでで、それは哲学者が一番使いたくないクリシェである。そもそも話が盛り上がるところこそ真理が顔を覗かせる場所で、ソクラテスの十八番である。彼からすれば、哲学者の独り言から真理が引き出せるというのはとても考えられない話だ。だから、哲学者には夜の顔が似合っている。居酒屋で反吐を吐くか吐かれるかしながら、真理が顔を覗かせる。

「もっと指を突っ込め、そうすれば楽になる」(定言命法)

この居酒屋哲学を近代では講壇哲学という。すると、それそれは滑稽なことになる。定時のお散歩から駆けつけた”官賭”老教授はチューハイ片手に何やらおもむろに、マスター(主)の頭の上に徳利(道徳)を載っけて楽しんでいる。

「ヤーヤー! ヤーヤー! ゼアグート、ゼアグート! ダスイストファンタスティッシュ!」

カウンターでは白手袋とコンパス・定規をあしらったエプロンを身につけた”官賭ファンクラブ”会員は皆、シコシコとメモ取りに余念なし。

「大学の哲学」というのは存在しない。大学で哲学が可能であるのは、それが哲学ではないからである。というよりも、それが自らを哲学と言い張っていられる場所がある限りは、自らが何ものでもないことを証明しているからであって、その証明は人畜無害の証しであるからである。そのような証明が嫌であれば、哲学は大学から出て行かなければならないが、だからといって哲学が在るという証明にはならない。それは制度としてあるとしても、その枠を必要とするような哲学なのであれば、僕はバーに行って、マスターとイナイイナイバーでもしてた方がましだ。

「Nein Nein Bar!」(今日もやってますよ、うちは)

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