人間はもともと蛆に起源を持つもので、その蛆というのがぞっとしない単純極まりない管であり、中身は空っぽ、あるといえば悪臭を抱え込んだ虚ろな闇ばかりなのだ、という自らの考えを彼は打ち消すことができなかった。--- プラトーノフ
2010/07/24
「腐敗の摂理」の語る前に
批評機能というものが世間に存在しうるかどうかは、常に考えなければならないことである。
これはどの業界でも同じである。
テレビであろうが、文学であろうが、音楽であろうが、美術であろうが。
変なたとえだが、簡単な話として、食客が日本からなくなった時代を考えてみよう。
格差どうのこうのという、はっきりいえばどうでもいいことを口にしなかった時代のことである。
つまり、そんなことはマスコミがいわなくても肌感覚で誰もが分かっていた時代のことである。
マスコミ=メディアというのはそもそも、感覚が鈍感になった時代の産物であるという前提に話をしている。
なので、「そうじゃない、そんなことはない」と考える人には通じないことではある。
しかし、人が客と接する時間を持たなくなったということと、それを自覚していないということは、この時代の最大の副産物である。
極端なことを言えば、殺人が増えただの、馬鹿が増えただの、といったことはほとんど「輝かしき文化」にとっては問題にすらならない現象であり、そんなものはどの時代でも同じく存在し、また存在するであろうことと考えれば、恐怖に震えることではない、という意味である。殺人や白痴が良いとか、好きだと言っているのではなく、もう一度言うが「輝かしき文化」が存在する限りにおいてはどうでもいい話だということである(納得いかないという人は、これ以上読んで頂かなくてもよい。貴方とオテテを繋ぐ気はないので)。
さて、食客である。
どこまで遡れるかは分からないが、昭和30年代が下限だろうか。
40年代半ば生まれの自分には分からないので調査する必要ありだが、仮にここを臨界点としてみよう。
ちょうどあの時期は経済成長の始まりである。核家族という言葉が生まれるが、これなどは大した内容のない似非社会学用語ですらあると言ってもよい。なぜなら、これから言おうとすることからすれば、「核」などというものが家族からは奪われていく段階に入っていくからだ。つまり、大家族の核が何かということが、さも誰にも分かっている前提であるかのようで、その実、何も前提にされていない上での用語だからだ。ならば、家族の核とは何か? 父親だろうか? それとも母親だろうか?
はっきり言ってしまえば、そもそも家族の核など存在しないのである。
核というのはその周辺に何か存在するものがあるからこそ結果的に名づけられうるものでしかない。
細胞核でも構わない、剥き出しのものを核とは呼ばないのである。
核は常にそれを取り囲むものがあり、それに守られているものであるからこそ核と呼ばれるのであってみれば、
権威を意味する言葉でもなければ、守られなければならないものも意味しない。
逆に、剥き出しにならないことが前提の存在であるということなのだ。今の天皇制がその好例である。
核の代わりに別の言い方をしよう。
社会現象における中心というもの、あるいは周縁というものは、結果として存在を始めるものである。最初から、「はい、ここを中心にしましょう」などといった感じで生まれるものではない。それはすでに政治的中心である(天皇制がそうではないことは皆が知っていること。今のあれは結果である、したがって、政治的な中心ではなく、社会的なそれであるからこそ象徴=核なのである。これに意味がないといっているのではない、そこに政治的構築性としての中心ではないと言っているのである)。社会現象というものは建築とは違って、確たる設計図を持って生じることはない。ということは、すべては結果としてのステータスしか持たないのであり、だからこそ、差別意識というものも生まれるのである(「あの田舎者が!」というシティーボーイの言葉、あらゆるシンボリズム)。
これはある意味仕方のないことで、社会現象の結果に誰も口出しは出来ないのである。
それが厭なら、その社会からオサラバするしかないか、その社会を流浪する(そして、唾を吐いたり、反社会組織を作る)しかない。そのどちらかである。そして、ここに文化の差が生じる。カルチュラル・スタデーズをわざわざ勉強するまでもなく、文化が均一であったことなどないのだ。多文化主義とかなんとか言うまでもなく、文化は差異の結果/喧嘩なのだ。
やっと本題に戻るが、この差の象徴が「食客」である。
食客は食わしてくれる人間がいるので食客になる。
何も食わさない家に、客なんかになってノコノコ顔出すわけがない。そもそも、そんなところに客などいないのだ。
飯を食わしてもらえる場所というのはある意味、文化のぶつかる場所が生まれているということである。
客としてもてなすということは、人を人らしくもてなし、客として食に与るということは、客としてそれらしく振る舞うということである。相手が相手の腹を探るという下品なことはせず、お互いがお互いの身分をよく任じているのである。
これは、その善し悪しはともかくも、文化の象徴であると私は思うのである。
ちと前に、品格どうのこうのという本が売れた。
読んでないので何の評論も出来ないが(読んだとしても多分批評する気も起こらないだろうが)、格というのは単なる位置関係のことでしかなくて、そこにいるときの振る舞い方、位置特定の仕方を品というのである。だから、何も格好つけて「品格」何てことを言わなくてもよいのである。品格が位置関係だということならば、自分を相手にしてくれる相手がいなければ始まらないのであって、ただそれだけのことなのである。しかし、文化はこれを重んじるのである。そして、この位置関係が分からなくなっているのが現代なのである。
文化という言葉を闇雲に使ってきたような印象を与えているかもしれない。
ここで一言しておこう。文化とは、自分と違うものが存在するという意識であり、それ以上でも以下でもない。
一見すると、品とは基本的に相容れない概念である。しかし、高貴であろうがなかろうが、そんなことには無縁な概念である。
自己に文化があると思うのは、自分とは違う「夜郎自大」が他にはいるというほどのことであって、自分を認めない奴は下品だというだけのある意味「品のない」概念でもあるのだ。
こんなこと言うと暴言ととられるかもしれないが、「文化」などという言葉はそもそも差別意識を窒息させて閉じ込めた言葉に過ぎないのだ。
もう一度、食客の話に戻ろう。
家に食客がいたうちは、互いの差を感じていた。つまり、よい意味でも悪い意味でも文化を体感出来たのである。共有ではない、体感していたのである。共有しているからとか、共感しているからとかは、文化とは何の関係もないことである。文化という差別意識があるからこそ共有感覚が生じるのであり、これなどは食文化を見れば誰にだってすぐに分かることである。侍とかアニメとか茶道とか華道とかを日本文化と言っている連中はその辺のこと、つまり、身体感覚すらも失って脳内麻薬に冒されているのである。
さあ、ここで本当に、食客の話をしよう。
家が開かれているということが前提の話である。社会を文化的に生きようなどとはしない時代にしか生じない現象のことである。
相手の貧乏さ加減をよく知っている金持ちと自分の貧乏さを隠さないお人好しな貧乏人。しかし、そこに生きる人間のほとんどは貧乏人で、お互いそのことがよく分かっている民衆。その間では僻みや嫉みがない。最も清々しい、開けっぴろげな、翳んでいない人間関係である。つまり、オープンの一言である。このような文化は開かれている。多文化どうのこうのを言っているのでは決してない。差があるということを分かっていて、互い同士を差別しているからこそ素直に成り立ち、だからこそその間の流動が可能な関係である。文化的な格差もそこにはある。クラシックを知らない人間もいれば、落語を聞いたこともない人間もいる。互いが互いを馬鹿にする。お前そんなことも知らないのか。それで知らなかったことが今度は初めて聞いたことに変わり、次には知っていることに変わる。文化レベルの上下関係はないにしても、最初から何も知らない者からすればそれはプラスに他ならない。差が関係を調整し、そこで生じる交換が流れを生じさせ、それが人間を互いに(善くも悪くも)教化する。食客のモデルはこの教化である。さて、このようなモデルがなくなった時代、何が起こるのか、あるいは何かが起こりうるのか。
言葉は悪いが、簡単に言えば、糞詰まりである。清浄さはない。すべては詰まるのだ。
しかし、これが「個」なのではない。大間違いである。
この言葉について、日本人はどこかで大いに勘違いしたところがある。
「個」というのは差に基づいた概念であるはずである。これ以上分けることの出来ないという意味ではあるが、他との差を前提にした上で別の他へと接続する契機を持った存在者ということを、日本人はもしかしたら理解しきれていないのかもしれない。オタクというものはその代表例で、ほぼ同質の文化しかもたない連中同士を呼び合う言葉であり、しかも、その中でしか流通しない言語を持つ。これは交換のようでいて、同類項を足しているだけで、決定的な違い、つまり、計算不可能な接触などといったものは前提にしていない。互いに理解しようのないことなどは最初から話にもならないということになって、相手を選ぼうとする。さて、ここが大きな陥穽なのだ。
相手を選べるということは文化にとっては何のプラスにもならない。むしろそれはマイナスである。ここでいう意味での「文化」とはその前提が差であり、出会うものぶつかるものすべてがマイナスなのである。そして、それを互いにプラスにするというのが「文化」の極地であり、必要不可欠の条件なのである。
さて、無理矢理ここで終わらせる。
もし、人が文化論を語るときにこの条件を忘れたとすれば、それはその人が便秘で悩んでいるか、非文化人(ただのホモサピエンス)であるかのいずれかであろう。
「腐敗の摂理」はここから始まる。
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